最も長く“私たちが愛した”心優しきスパイ。
本来、今回はいくつかの異なるネタを用意していたのですが、やはり急遽これで行かせてください。この場ではこれまでも度々007ネタを書いてきましたが、遂にこういったテキストを書く日が訪れてしまいました。007ことジェームズ・ボンドを演じた6人の俳優のうち、ついに初めて1人がこの世を去りました。ロジャー・ムーア、享年89。近年患った癌と勇敢に戦い、スキー好きだったことから長年住んでいたスイスの自宅で息を引き取ったそうです。 悲しくも光栄なことに、訃報から間も無く共同通信社から依頼があり、地方紙配信用の追悼文を寄稿させていただきました。ここではそこで書ききれなかった彼の個性や功績について綴らせてもらおうと思います。
そもそもムーアは3歳下のショーン・コネリーと並んで、初代ボンドの候補だったという説もあります。しかし彼の三代目襲名はちょっとワケありの流れを踏まえることとなりました。
こうした流れを経て、結局ムーアは三代目なのに、最も成功していた初代から大役を引き継ぐという、奇妙な流れと大きなプレッシャーのもとでボンドとなったのです。
だがここからがムーアは賢かった。彼はレーゼンビーのように、コネリーのワイルドで男らしいボンドのキャラクターを踏襲しようとはせず、独自の路線を開拓しようと試みたのです。
ウォッカマティーニをオーダーしない。アストン・マーティンにも乗らない。ジョークを増やし、バイオレンスは控えめに。女が惚れるチャーミングな魅力と男が憧れる紳士の品格を兼ね備えた新しいボンドを作り上げたのです。
つまりムーアの新しいボンド像とは、彼自身の平和主義者でチャーミングな人柄をそのまま反映したものだったのです。
そこでムーアはこれも一新、懇意にしていたシリル・キャッスルにオーダーを依頼して、ヨーロピアンテイストを軸にトラッドをよりスポーティかつエレガントにアレンジしたようなスタイルを着るようになりました。このあたりはムーアが軽妙洒脱な筆致でシリーズの舞台裏を綴った12年刊行の書籍『Bond on Bond/007 アルティメットブック』(日本語版はスペースシャワーネットワーク刊)に詳しく綴られています。
その後はアンジェロ・リトリチオ、ダグラス・ヘイワード、ワシントン・トムレット(シャツ)、サルヴァトーレ・フェラガモ(靴、ベルト、バッグ類)といったテーラーやブランドが参加して、ラペルの大きめなブレザーやダブルジャケット、フレア裾のタキシード、サファリ・ジャケットなどが登場しました。時計も(初期はロレックスだが)セイコーを着けていました。しかもデジタル!(もちろん秘密機能付き(笑)) 後にも先にもアナログではなくデジタル時計を着けたボンドは今のところムーア版だけです。
この映画の主題歌がカーリー・サイモンの歌った「私を愛したスパイ(原題:Nobody Does It Better)」でした。
そして遂には宇宙まで進出してしまった奇想天外な次作『ムーンレイカー』で、ムーア版ボンドは007シリーズ史上最高額(210,300,000ドル)の世界興行収益を記録しました。これは95年に五代目のピアーズ・ブロスナンが『ゴールデンアイ』で破るまで記録を保持し続けました。
また主題歌もサイモンの他にポール・マッカーニー&ウィングス、ルル、シーナ・イーストン、シャリー・バッシー、リタ・クーリッジ、デュラン・デュランらが務めました。これもファッション同様、時代を反映したきらびやかさというか、今振り返ると統一性が皆無で面白みがあります。
ドタバタとしていた007の制作がムーアのおかげで安定したわけです。そしておそらく製作陣が「このシリーズを長期化させることが出来そうだ」と初めて自信を持つことができたのも、ムーア版ボンドだったはずです。
ダンディズムなら初代コネリー、リアリズムなら現六代目のダニエル・クレイグに分があるでしょう。でも常にユーモラスで大人の余裕を感じさせるムーア版ボンドに、大人になってから色気と憧れを感じるようになった自分がいたことに、今回の訃報であらためて気付かされました。
クレイグはムーア逝去の報に接し、前述の「私を愛したスパイ」の主題歌をそのまま引用して「Nobody Does It Better」と哀悼の意を表しました。そして007シリーズの公式ウェブ(007.com)も、この曲をBGMにムーアの追悼ビデオを発表しました。素晴らしい出来栄えです。
〈Baby,you’re the best〉。この曲のアウトロは、そんな歌詞が繰り返されます。全くその通りでした。平和主義者でチャーミング。結婚は4度。私生活でも女性を泣かし、また女性に泣かされたようでしたが、最後は現在の奥様に看取られたようです。
今回は長くなりましたが、みなさんもこのテキストやDVD&Blu-rayを通じて、今一度、あの賢く優しく、最も長く多くの人に愛されたロジャー・ムーアと三代目ボンドを楽しんでいただけたら、007ファンの端くれとしてこれ以上の喜びはありません。
R.I.P. Sir Roger Moore.
心よりご冥福をお祈りします。どうか安らかに。
ではまた次回お会いしましょう。
内田 正樹
エディター、ライター、ディレクター。雑誌SWITCH編集長を経てフリーランスに。音楽をはじめファッション、映画、演劇ほか様々な分野におけるインタビュー、オフィシャルライティングや、パンフレットや宣伝制作の編集/テキスト/コピーライティングなどに携わる。不定期でテレビ/ラジオ出演や、イベント/web番組のMCも務めている。近年の主な執筆媒体は音楽ナタリー、Yahoo!ニュース特集、共同通信社(文化欄)、SWITCH、サンデー毎日、encoreほか。編著書に『東京事変 チャンネルガイド』、『椎名林檎 音楽家のカルテ』がある。