精悍から円熟の道を辿った気骨の名優
この場ではこれまでも度々007シリーズ関連のテキストを書いてきましたが、またもこうして追悼文テキストを書く日が訪れてしまいました。ショーン・コネリーは1930年にスコットランドはエディンバラで生まれました。海軍、トラック運転手、ライフガードなどを経て、1953年にはミスターユニバースコンテスト重量上げ部門で3位に入賞。その時、演技の道を勧められ、1954年からテレビや劇団で演技を始めると、端正な顔立ち、188センチの長身、ボディビルで鍛えた筋肉美による存在感で『007』シリーズ製作陣の目に留まります。
当初、007原作者のイアン・フレミングはコネリーの起用を快く思わず、「厚紙細工のでくのぼう」とまで彼を揶揄していたと言われています。労働者出身のワイルドさが抜けていなかった当時のコネリーは〝イケてる〟雰囲気からは遠かったのです。
元来洒落者だったヤングは、自分が利用していたテーラーのアンソニー・シンクレアでコネリーのスーツを仕立てます。ちなみにシャツはチャーチルや後のチャールズ皇太子の御用達でも知られたターンブル&アッサーでしたが、こうした趣味はヤングのセンスが大きかったのです。
Tomorrow is #JamesBondDay as October 5th is the day the first James Bond film DR. NO was released in 1962. pic.twitter.com/813Kkhcf5m
— James Bond (@007) October 4, 2020
On this day in 1961 Sean Connery was announced as the first actor to play James Bond. Producer Cubby Broccoli said: “Connery walked into our office and had a strength and energy about him which I found riveting.” pic.twitter.com/OhEM2wXgrR
— James Bond (@007) November 3, 2020
『007』シリーズでは後からボンドの父がスコットランド人という設定が加えられました。これはイアンがコネリーをボンドと認めたこと、またコネリーが演技のなかでもスコットランド特有のアクセントを崩さなかったためと言われています。
『007ダイヤモンドは永遠に』の際に得た破格のギャラもスコットランドの教育基金に寄付していました。2000年、エリザベス2世からナイトの称号を与えられた際の授与式にはスコットランドの伝統衣装であるキルトを着て出席。「独立するまでは死んでもスコットランドに帰らない」とも発言していました。
元妻へのDV疑惑や女性軽視発言などが報じられたこともありましたが、気骨に溢れ、スコットランド人としての矜恃を貫き、映画人として生きたいように生きた現役時代だったのではないでしょうか。そんな佇まいが多くの人々を魅了してやまなかったのだと思います。
心よりご冥福をお祈りします。安らかに。
内田 正樹
エディター、ライター、ディレクター。雑誌SWITCH編集長を経てフリーランスに。音楽をはじめファッション、映画、演劇ほか様々な分野におけるインタビュー、オフィシャルライティングや、パンフレットや宣伝制作の編集/テキスト/コピーライティングなどに携わる。不定期でテレビ/ラジオ出演や、イベント/web番組のMCも務めている。近年の主な執筆媒体は音楽ナタリー、Yahoo!ニュース特集、共同通信社(文化欄)、SWITCH、サンデー毎日、encoreほか。編著書に『東京事変 チャンネルガイド』、『椎名林檎 音楽家のカルテ』がある。