ハロルドの旅立ちは衝動的にはじまる。余命わずかのクイーニーのため、歩くことで彼女を鼓舞するという強い意志が礎となっている。妻モーリーンには、”車庫までしか歩いたことがない人が、バカげている”と揶揄される。しかし、ハロルドはたとえ雨のなか、風のなか、”君は死なない、死なせない”と鬼の形相で闊歩する。そうまでして彼を歩かせる理由と、クイーニーとの関係は一体なんなのか。旅先で出会う登場人物だけでなく、われわれ鑑賞者も魅せられていくのである。
ハロルドの旅は、念入りに計画された物見遊山の旅行とは一線を画す。携帯電話を置き去り、地図とコンパスを片手にキングスブリッジからベリック・アポン・ツイードまでの500マイルを革靴で行くというのだから驚かずにはいられない。そう多くはないが、筆者自身にもそういった類の旅の経験がある。後々思い返してなにが面白いかというと、準備不足によるハプニングである。行く先々の情報をすべて事前に調べておけば安心で、余程のことがなければ予想した範囲の内に収まる。多くの観光客が押しかける場所で写真を撮り、ガイドブックに掲載された物を食べていると、どこかオリジナリティに欠けると思ってしまうのは元来の天邪鬼なせいだろう。ときに、それでは誰かが用意した道を歩かされているようで刺激が足りないことがある。例えるならば、攻略サイトを片手にこなすドラクエのようでひどくつまらない。見知らぬ国で予期せぬハプニングが起きたならば、その土地の人の助けを借りればなんとかなる。これも旅の醍醐味の一つではないだろうか。
この一筋縄ではいかない旅をするハロルド・フライを演じるのは、俳優ジム・ブロードベンドだ。このコラムの常連中の常連で、『ゴヤの名画と優しい泥棒』や『キング・オブ・シーヴズ』などの作品で何度も紹介している。日本で公開される彼の出演作は見逃さずに鑑賞するほど好きな役者だ。原作を読んでみても頭に浮かぶのは彼そのもので、まるで当て書きのようだった。ハロルドは、どれだけ疲弊しても決してタイをゆるめず、血豆ができても革靴を脱がない。これをジム・ブロードベンドが体現すると、いかにも英国人らしくて自然体だった。英国人の矜持を感じる頑なさが、映画を通してとくに印象的だった。
話はずいぶん横道に逸れてしまったが、自分のためにしか歩いたことのなかった男が、はじめて人のために歩こうと、これまでとは異なる道を進む。 医学的にはなんの根拠もなく、一見常識を逸脱した行動だが友人を勇気づける。“必要なのは常識じゃなくて信じる心”。劇中にこんな美しい台詞があるように、無垢でロマンチックな映画だった。
『ハロルド・フライのまさかの旅立ち』
https://movies.shochiku.co.jp/haroldfry/
6月7日(金)新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ有楽町、シネ・リーブル池袋 他全国公開
監督 へティ・マクドナルド
脚本・原作 レイチェル・ジョイス「ハロルド・フライの思いもよらない巡礼の旅」(亀井よし子訳/講談社文庫)
出演 ジム・ブロードベント、ペネロープ・ウィルトン
2022 年|イギリス|英語|108 分|ビスタ|カラー|5.1ch|原題 The Unlikely Pilgrimage of Harold Fry|
日本語字幕 牧野琴子
提供:松竹、楽天 配給:松竹 後援:ブリティッシュ・カウンシル
© Pilgrimage Films Limited and The British Film Institute 2022
部坂 尚吾
1985年山口県宇部市生まれ、広島県東広島市育ち。松竹京都撮影所、テレビ朝日にて番組制作に携わった後、2011年よりスタイリストとして活動を始める。2015年江東衣裳を設立。映画、CM、雑誌、俳優のスタイリングを主に担い、各種媒体の企画、製作、ディレクション、執筆等も行っている。山下達郎と読売ジャイアンツの熱狂的なファン。毎月第三土曜日KRYラジオ「どよーDA!」に出演中。
江東衣裳
http://www.koto-clothing.com