先日、日本でもロイヤルウェディングの可能性が出て来ました。どんな結婚でも、無条件で祝意を申し上げたい気分になります。
さて、在イギリス邦人仲間でも、国際婚同士で話題になることと言えば、家族の食事、親類との付き合い方、家庭内言語、将来(老後に)棲む国、日本に一時帰国するタイミング、子供たちの学校、数々の小さな不安や悩み、そして離婚です。当方の周囲で国際婚した日本人メンバーは、圧倒的に女性が多数で男性は数えるほどしかおりません。ですから、同性間同士でしか話せないような話題は、異性との集まりでは触れないことが多いと思います。不文律になっているのか、本能的に避けがちになっているのか、お蔭で男としての孤独感に拍車が掛かります。
当方は1980年代に東京のイギリス大使館領事部で婚姻の手続きをしました。「日本人男性は今年で何人目ですか?」と、当時の領事部の職員に尋ねたところ「日本人男性とイギリス人女性との婚姻は…、あらまあ3年ぶりですねぇ」
そして、2015年に同部署の職員に聞いたところ、ここ数年間は年に10組ほどのケースは男性が日本人だそうです。東京の領事部ではその程度の数だけですが、この30年間でかなり増えている筈です。ところが、国際婚の男性配偶者同士でつるむことは殆どないばかりか、稀に会しても、結婚生活や妻のことはあまり話題にならないのですね。イギリス人妻や外国人妻を持つ男性の友人・知人は、当方の場合極めて少数です。趣味仲間同士で集まることはあっても、共通の婚姻形態同士で特に集まろうとも思いません。日本人男性の特徴でしょうか?
また、当方はある英国機関の配偶者団体に所属しています。同団体の名前はヴィクトリア時代から長らく「婦人協会」でしたが、頼んでもいないのに、当方の婚姻直後に「配偶者協会」に替えただけでなく、当方も仲間入りさせてくれました。その後、同性婚も増えて来たので、法的にカバーされていない事実上のカップリングであっても、協会はそのカップリングの相方を積極的にサポートする現実的な体制を整えて、「配偶者及び家族協会」と名前をさらに変更したのは1990年代までのイギリス社会で起きたことです。互助組織としての機能を最優先するには、婦人会という「枠」や言葉に固執する理由が無くなったのですね。
世界各国を巡る仕事に就いているイギリス人妻と伴に異動するので、当方は世界各地に置かれた日本人倶楽部にも所属し、いつもお世話になっています。倶楽部内にいろいろな活動があるので、参加させて頂いておりますが、女子力の高いオジサンであっても婦人会には参加していません。もちろん、配偶者に帯同する日本人男性というのは、究極のマイノリティになるのですが、当方の場合は、在外英語文化圏にも所属することになるので、たとえ海外(日英以外の国)でもコミュニケーションや気分転換の材料には事欠きません。
ところで、イギリス外交機関の離婚率は78%です。理由の一つとして、在外生活で被る刺激の多様性にあると考えられています。一生懸命にわき目も振らずに勉強して、当該機関に入省したものの、海外に行くといろいろな誘惑があるからと言えなくもありません。この30年間に経験した外交伴侶生活でも、こちらが結婚祝いをしても、いつの間にか離婚しているケースも数えきれません。気付いてみると、夫婦の組み合わせがスワッピングしているやや気まずいケースや、いつの間にかヘテロ婚から同性婚に替わっているなどの生物の神秘を感じさせるケースもありました。離婚すると、送るクリスマスカードが2通になってしまうので、我ら夫婦は離婚した彼らのことをdivided card caseと呼ぶ習慣がついて20年以上になります。もちろん、共通の友人同士が婚姻して2通が1通で済ませられるmerged card caseもあります。因みに、どちらも当方の作りだした表現であって、純粋な英語表現ではありません。
婚姻が両者の合意から成立するということについて、日本と英国とでは大きな違いは無いと考えても良いと思います。宗教的な制約やら法的な契約観念を語ることは本稿の目的ではありませんので、常識的な民法(Private Law)の範囲で言えば、「両者の合意=契約」ということになりますね。翻って、婚姻する以上は離婚する可能性も出て来るわけです。所詮他人同士ですし、生活観や人生観の不一致や変化などは、後になってからいくらでも起こり得るので、結婚の際には離婚の覚悟をしておくことが現実的ということにもなります。因みに、当方の現実主義的発想は7歳で父が病死した現実が背景になっていると思います。
その結婚観を批難する女性が何度か現れたことがあります。まず当方が持論を述べます。「結婚する以上、離婚する可能性が生じるわけでしょ。ましてや国際結婚で、離婚するとなるとどんな手続きが互いに必要になるかということまで粗方(あらかた)調べておいたよ」これに反論して、「せっかく結婚して、何でそんな否定的で、消極的なことしか考えないの?奥さんに悪いと思わないの?」と、イギリス人男性と結婚した日本女性の何人かに、場所と時間を違えて叱られたことがあります。当方の返した言葉は、「なるほど。君と結婚する縁にならなくて良かったかもね」
やがて、後年になって当方を批難した女性の一人は国際離婚を2度経験しました。しかも、そのノウハウを仕事に活かしています。国際離婚についての講演会も開くそうですが、その際に彼女が必ず使うフレーズが「婚姻は離婚の始まりとも言えます」だそうです。コピーライトを請求するべきでしょうか。笑
また、つい最近(2017年3月)のことですが、結婚観についての国際シンポジウムに参加した際、イギリスの代表が発言したとき、韓国人の通訳者(英語⇒韓国語)が困っている状況を見掛けました。「近年、イギリスで生まれる子供の50%が婚外子です」この部分で、通訳者が発言者に何度も確認を取っていた様子が、マイク越しに聞こえました。それまで、どんなに難しい専門用語でもすらすらと通訳していたので、「この停滞は何事か」と場内も騒然としていました。
通訳「…あの、15%…いや、0.5%の間違いではありませんか?」
英代表「いいえ、間違いではありません。長年同居していても、結婚しない人が多いのですよ」
もちろん、OECD統計など行政側の数字が絶対に正しいとは限りません。文化的背景により埋もれてしまう数字もあるのです。そのことを考慮しても、儒教の影響を受けた結婚観と婚姻制度の中で、韓国での事実上の婚外子が社会に容認されにくいことが、このやり取りにも表れています。
「離婚で凄惨な想いをするくらいなら結婚などしない。でも、子どもは欲しい」とか、「愛情の繋がりを契約という観念と法とでがんじがらめにしてしまうことは人道的におかしい。Wedlock(婚姻の古語、専門用語。「足かせ」というニュアンスを含む)とはよく言ったものだ」などと考える人たちだけでなく、婚姻による法的、社会的なベネフィットよりも、より本人の状況に合わせたライフスタイルを維持したいという個人的な指向へと向かいつつあることは東アジアでも同様のことのようです。
昨今では、社会の趨勢を踏まえ、結婚しなくても、夫婦と同等の権利を得られる事実婚(common law marriage, de facto marriage)は制度化しつつ、欧州では一般化しつつあります。長年の事実婚の後に、婚姻することもありますが、その場合は財産等何らかの法的なベネフィットなど、特に子どもを持った場合に婚姻関係にあった方が彼らにとって有利かかどうかという理由が背景になっています。
さて、婚外子の中でも、男性は既婚者だけど、魅力的な彼の子どもが欲しくて産んだ。という倫理的にはどうなの?というケースが当方の身近には2件あります。ひとつだけ紹介します。当時、彼女Eさんは大学教員で、それなりの社会的地位を持っていましたし、経済力もありましたから、養育の問題は無かったのですが、1980年初めですと、イギリスでも「私生児?」と奇異の目で見る人もまだ居た時代です。しかし、当方を含め我々親類たちは現実を受け止め、彼女を批難することも無く、新生児の誕生を純粋に喜びました。イギリスの世間の目は、理論武装の出来るインテリジェンス豊かな人には無言でした。Eさんの息子O君は父親が不在で、たまにしか会えない状況を受け容れることになったわけですが、O君を育てるEさんの姿は、7歳で父を病気で失ってから子供たちを育てた当方の実母の姿とは、なんら変わりは無かったと記憶しています。つまり、普通の家庭など存在せず、誰もが特殊な事情を抱えた上で互いを尊重し合って、常識的な生活を営なんでいれば、誰からも文句を付けられることがない成熟した社会が、既にイギリスに存在していたということです。O君自身も出生の件で苛められたことなどはありませんでした。もともと苛められるタイプではなかったことも幸いしているかもしれませんが…。
事実を肯定的に受け止める。ということで、イギリス人の気質が素晴らしいと思いましたし、生まれて来たことに責任を負わせるわけには行きませんから、その子供の気持ちを最優先しようというフレキシブルな考え方だな、と思いました。社会的にも、宗教的にも、倫理的にもいろいろ議論の湧くissueでしたが、その子どもの存在は絶対的な事実ですし、①親が子どもとの関係を正当化する論理を個人レベルで打ち立てられることと、②将来を生きて行く支えになるその論理自体が(どんな内容であっても)貴いこと。これらの2点がこの話の中でのポイントです。そして、個人主義っていいでしょ。と、今更ですが、皆さまにお伝えしたかった次第です。
そのO君も30歳を超えて今や一児の父となりました。当方の送るクリスマスカードは、当初EさんとO君親子宛てに送っていましたが、彼が独立した10年ほど前からはロンドンに残るEさんとブリストルに引っ越したO君、それぞれ別々に送ることになりました。そして、今では誕生日カードはO君の奥さんと子どもにも送り続けています。親類の裾野が広がって行くのは楽しく、且つ頼もしいことです。
さて、在イギリス邦人仲間でも、国際婚同士で話題になることと言えば、家族の食事、親類との付き合い方、家庭内言語、将来(老後に)棲む国、日本に一時帰国するタイミング、子供たちの学校、数々の小さな不安や悩み、そして離婚です。当方の周囲で国際婚した日本人メンバーは、圧倒的に女性が多数で男性は数えるほどしかおりません。ですから、同性間同士でしか話せないような話題は、異性との集まりでは触れないことが多いと思います。不文律になっているのか、本能的に避けがちになっているのか、お蔭で男としての孤独感に拍車が掛かります。
結婚とは、家族と家族との交換だな、と実感する場面。このクリスマスディナーには、祖父と祖母の代で2つ、我々の世代で3つ。合計で5つの婚姻で出来上がった家族です。画像は10年以上前のものですので、今や我が子らの世代も親となりつつ、ファミリーツリーのすそ野はどんどん広がって行きます。いつまでもこの集いが続くことを願うばかりです。
当方は1980年代に東京のイギリス大使館領事部で婚姻の手続きをしました。「日本人男性は今年で何人目ですか?」と、当時の領事部の職員に尋ねたところ「日本人男性とイギリス人女性との婚姻は…、あらまあ3年ぶりですねぇ」
そして、2015年に同部署の職員に聞いたところ、ここ数年間は年に10組ほどのケースは男性が日本人だそうです。東京の領事部ではその程度の数だけですが、この30年間でかなり増えている筈です。ところが、国際婚の男性配偶者同士でつるむことは殆どないばかりか、稀に会しても、結婚生活や妻のことはあまり話題にならないのですね。イギリス人妻や外国人妻を持つ男性の友人・知人は、当方の場合極めて少数です。趣味仲間同士で集まることはあっても、共通の婚姻形態同士で特に集まろうとも思いません。日本人男性の特徴でしょうか?
王室の歴史を眺めると、皆さん自由に結婚できなくて大変でしたね。欧州の国々が王制から共和制になると、身分とか血縁とか伝統的な縛りが無くなったものですから、祖先に炭坑夫を持つ末裔が王室に入る事態に及んだと揶揄するメディアもまだ健在です。
また、当方はある英国機関の配偶者団体に所属しています。同団体の名前はヴィクトリア時代から長らく「婦人協会」でしたが、頼んでもいないのに、当方の婚姻直後に「配偶者協会」に替えただけでなく、当方も仲間入りさせてくれました。その後、同性婚も増えて来たので、法的にカバーされていない事実上のカップリングであっても、協会はそのカップリングの相方を積極的にサポートする現実的な体制を整えて、「配偶者及び家族協会」と名前をさらに変更したのは1990年代までのイギリス社会で起きたことです。互助組織としての機能を最優先するには、婦人会という「枠」や言葉に固執する理由が無くなったのですね。
世界各国を巡る仕事に就いているイギリス人妻と伴に異動するので、当方は世界各地に置かれた日本人倶楽部にも所属し、いつもお世話になっています。倶楽部内にいろいろな活動があるので、参加させて頂いておりますが、女子力の高いオジサンであっても婦人会には参加していません。もちろん、配偶者に帯同する日本人男性というのは、究極のマイノリティになるのですが、当方の場合は、在外英語文化圏にも所属することになるので、たとえ海外(日英以外の国)でもコミュニケーションや気分転換の材料には事欠きません。
教会で結婚式を終えた後、ガストロパブでディナーをすることがあります。新郎新婦が到着する前に、fancy a quick one(駆けつけ一杯。但し、隠語の意味もあるので要注意)とパブに着くなり飲み始めます。この時、泡立ちの激しいスタウトやビターを注文すると、泡が落ち着く前に新郎新婦が到着してしまい、はやくディナーテーブルに着かなければならなくなりますので、飲み損ねることがあります。泡切れの良いラガーをお奨めします。
ところで、イギリス外交機関の離婚率は78%です。理由の一つとして、在外生活で被る刺激の多様性にあると考えられています。一生懸命にわき目も振らずに勉強して、当該機関に入省したものの、海外に行くといろいろな誘惑があるからと言えなくもありません。この30年間に経験した外交伴侶生活でも、こちらが結婚祝いをしても、いつの間にか離婚しているケースも数えきれません。気付いてみると、夫婦の組み合わせがスワッピングしているやや気まずいケースや、いつの間にかヘテロ婚から同性婚に替わっているなどの生物の神秘を感じさせるケースもありました。離婚すると、送るクリスマスカードが2通になってしまうので、我ら夫婦は離婚した彼らのことをdivided card caseと呼ぶ習慣がついて20年以上になります。もちろん、共通の友人同士が婚姻して2通が1通で済ませられるmerged card caseもあります。因みに、どちらも当方の作りだした表現であって、純粋な英語表現ではありません。
1958年、妻の伯母夫婦です。
2015年、80歳を超えた真ん中の二人が伯母夫婦です。末永くとは、こういうことを言うんでしょうね。夫婦同士がとても仲が良いので、彼らから学ぶこともたくさんあります。左右の2名は当方の義両親です。こちらも有難い存在です。
婚姻が両者の合意から成立するということについて、日本と英国とでは大きな違いは無いと考えても良いと思います。宗教的な制約やら法的な契約観念を語ることは本稿の目的ではありませんので、常識的な民法(Private Law)の範囲で言えば、「両者の合意=契約」ということになりますね。翻って、婚姻する以上は離婚する可能性も出て来るわけです。所詮他人同士ですし、生活観や人生観の不一致や変化などは、後になってからいくらでも起こり得るので、結婚の際には離婚の覚悟をしておくことが現実的ということにもなります。因みに、当方の現実主義的発想は7歳で父が病死した現実が背景になっていると思います。
その結婚観を批難する女性が何度か現れたことがあります。まず当方が持論を述べます。「結婚する以上、離婚する可能性が生じるわけでしょ。ましてや国際結婚で、離婚するとなるとどんな手続きが互いに必要になるかということまで粗方(あらかた)調べておいたよ」これに反論して、「せっかく結婚して、何でそんな否定的で、消極的なことしか考えないの?奥さんに悪いと思わないの?」と、イギリス人男性と結婚した日本女性の何人かに、場所と時間を違えて叱られたことがあります。当方の返した言葉は、「なるほど。君と結婚する縁にならなくて良かったかもね」
やがて、後年になって当方を批難した女性の一人は国際離婚を2度経験しました。しかも、そのノウハウを仕事に活かしています。国際離婚についての講演会も開くそうですが、その際に彼女が必ず使うフレーズが「婚姻は離婚の始まりとも言えます」だそうです。コピーライトを請求するべきでしょうか。笑
こちらの女性二人は姉妹です。二人とも婚前と姓は異なりますが、結婚しても同じ姓になりました。真ん中の男性B君と金髪の女性が夫婦。左の女性とB君の弟(画像外)もまた夫婦です。ある兄弟と然る姉妹とが結婚してしまうなんて、これほど仲良くて、固い絆は無いだろうなあと思います。婚姻の契約関係を繋ぐ要因とは、一般的には天気のように変わり易い心や感情であるとしても、彼らからは揺るぎの無い信頼関係を感じます。
また、つい最近(2017年3月)のことですが、結婚観についての国際シンポジウムに参加した際、イギリスの代表が発言したとき、韓国人の通訳者(英語⇒韓国語)が困っている状況を見掛けました。「近年、イギリスで生まれる子供の50%が婚外子です」この部分で、通訳者が発言者に何度も確認を取っていた様子が、マイク越しに聞こえました。それまで、どんなに難しい専門用語でもすらすらと通訳していたので、「この停滞は何事か」と場内も騒然としていました。
通訳「…あの、15%…いや、0.5%の間違いではありませんか?」
英代表「いいえ、間違いではありません。長年同居していても、結婚しない人が多いのですよ」
もちろん、OECD統計など行政側の数字が絶対に正しいとは限りません。文化的背景により埋もれてしまう数字もあるのです。そのことを考慮しても、儒教の影響を受けた結婚観と婚姻制度の中で、韓国での事実上の婚外子が社会に容認されにくいことが、このやり取りにも表れています。
こちらは英韓婚。真ん中は在ソウル英国大使。これから、新婦も配偶者協会の一員として、新郎と伴に世界各地で夫唱婦随の生活をしていくことでしょう。
「離婚で凄惨な想いをするくらいなら結婚などしない。でも、子どもは欲しい」とか、「愛情の繋がりを契約という観念と法とでがんじがらめにしてしまうことは人道的におかしい。Wedlock(婚姻の古語、専門用語。「足かせ」というニュアンスを含む)とはよく言ったものだ」などと考える人たちだけでなく、婚姻による法的、社会的なベネフィットよりも、より本人の状況に合わせたライフスタイルを維持したいという個人的な指向へと向かいつつあることは東アジアでも同様のことのようです。
昨今では、社会の趨勢を踏まえ、結婚しなくても、夫婦と同等の権利を得られる事実婚(common law marriage, de facto marriage)は制度化しつつ、欧州では一般化しつつあります。長年の事実婚の後に、婚姻することもありますが、その場合は財産等何らかの法的なベネフィットなど、特に子どもを持った場合に婚姻関係にあった方が彼らにとって有利かかどうかという理由が背景になっています。
さて、婚外子の中でも、男性は既婚者だけど、魅力的な彼の子どもが欲しくて産んだ。という倫理的にはどうなの?というケースが当方の身近には2件あります。ひとつだけ紹介します。当時、彼女Eさんは大学教員で、それなりの社会的地位を持っていましたし、経済力もありましたから、養育の問題は無かったのですが、1980年初めですと、イギリスでも「私生児?」と奇異の目で見る人もまだ居た時代です。しかし、当方を含め我々親類たちは現実を受け止め、彼女を批難することも無く、新生児の誕生を純粋に喜びました。イギリスの世間の目は、理論武装の出来るインテリジェンス豊かな人には無言でした。Eさんの息子O君は父親が不在で、たまにしか会えない状況を受け容れることになったわけですが、O君を育てるEさんの姿は、7歳で父を病気で失ってから子供たちを育てた当方の実母の姿とは、なんら変わりは無かったと記憶しています。つまり、普通の家庭など存在せず、誰もが特殊な事情を抱えた上で互いを尊重し合って、常識的な生活を営なんでいれば、誰からも文句を付けられることがない成熟した社会が、既にイギリスに存在していたということです。O君自身も出生の件で苛められたことなどはありませんでした。もともと苛められるタイプではなかったことも幸いしているかもしれませんが…。
文中に登場するO君がサングラスの男性。白髪の女性がおっかさんのEさんです。当然のように、O君の実父は親類の集いには参加しません。O君とは彼が7歳からの付き合いで、とても愛嬌のある子どもでした。当方は時々彼の父親代わりになっていたようです。いろいろな家族形態があっても受け容れてくれる親類と関係とは誠に有難く思います。
事実を肯定的に受け止める。ということで、イギリス人の気質が素晴らしいと思いましたし、生まれて来たことに責任を負わせるわけには行きませんから、その子供の気持ちを最優先しようというフレキシブルな考え方だな、と思いました。社会的にも、宗教的にも、倫理的にもいろいろ議論の湧くissueでしたが、その子どもの存在は絶対的な事実ですし、①親が子どもとの関係を正当化する論理を個人レベルで打ち立てられることと、②将来を生きて行く支えになるその論理自体が(どんな内容であっても)貴いこと。これらの2点がこの話の中でのポイントです。そして、個人主義っていいでしょ。と、今更ですが、皆さまにお伝えしたかった次第です。
そのO君も30歳を超えて今や一児の父となりました。当方の送るクリスマスカードは、当初EさんとO君親子宛てに送っていましたが、彼が独立した10年ほど前からはロンドンに残るEさんとブリストルに引っ越したO君、それぞれ別々に送ることになりました。そして、今では誕生日カードはO君の奥さんと子どもにも送り続けています。親類の裾野が広がって行くのは楽しく、且つ頼もしいことです。
マック木下
ロンドンを拠点にするライター。96年に在英企業の課長職を辞し、子育てのために「主夫」に転身し、イクメン生活に突入。英人妻の仕事を優先して世界各国に転住しながら明るいオタク系執筆生活。趣味は創作料理とスポーツ(プレイと観戦)。ややマニアックな歴史家でもあり「駐日英国大使館の歴史」と「ロンドン の歴史散歩」などが得意分野。主な寄稿先は「英国政府観光庁刊ブログBritain Park(筆名はブリ吉)」など英国の産品や文化の紹介誌。