当方、日本で就職する際に、ちょっとした挫折を経験したことがあります。現役で大学受験に合格したものの、当時の家庭事情で一度勤めてから数年後に受験し直して勤労学生として大学に進みました。すると、当然ながら、就職活動では何年か浪人した扱いを受け、好景気にも関わらず書類選考の段階では年齢制限などで、けっこう不利な状況に立たされたのです。そして、就職活動中には、数社の人事部の方に同じことを言われました。「君は普通のヒトよりも何年か遅れているのだから…」
大学に進んだ理由は教職を目指していたためです。そして、在学中にその準備を進めているうちに、教職に就く前に一般企業で働いた経験をしてみるべきだと考えを改めました。それを実行しようとしていたところで、今さらどうしようもない過去、しかも家庭の経済的事情から生じた個人的なことを、人事から「遅れている」と指摘されて、あたかも自分が社会の不適格者のような気持ちになったことがあります。
当時は、英語を話せる学生などほとんどいませんでしたし、筆記試験の成績も悪くなかったことと、多少弁が立つこともあって、面談で当方の言うことをよく聞いて下さった企業からは年齢制限を超えて内定を頂きました。
同時に、不思議な気持ちになったものです。体制から除外された筈なのに、その体制に順じようとしている自分が少し情けなく感じたのです。「良い大学を出て、良い就職をして…」という定められた人生のレールというか、すごろくのような人生設計をするヒトが大勢であった社会の中で、サイコロを振ることさえ許されない仲間外れの目にあっても、仲間に入るべくサイコロに手を伸ばしたことには、今から考えても滑稽さを禁じ得ません。
やがて、就職の成功から自己肯定観が芽生え、教員になる前に経験することなら、何ごとでも有意義だろうくらいに思っていました。そして、一旦その体制の中に埋もれてしまうと、過ぎ去った困難や問題意識は忘れてしまい、このまま終身雇用に甘んじても良かろうという自己保身しか考えなくなります。と、言うよりもレールに乗っかってしまうと思考停止に陥るのですね。
しかし、日本に居ながらにして、イギリス人たちと付き合うようになってから、同年代の彼らが、すごろく人生を歩む日本の学生や社会人たちとはまったく異なった独自性を身に付けていることが判って来ました。
今でこそイギリスの大学進学率は40%弱(2010年。但し、統計によって数字は異なります)ですが、1970年代終わりのイギリスの大学進学率は5~6%でした。日本はその時、既に30%を超えて大学進学する時代です。1986年頃から当方は東京の英国大使館に出入りするようになって、外交官やその友人たちと集い、しょっちゅうパーティにも参加していましたが、まず誰も出身校の話はしません。
何を勉強したか、大学での専攻は何だったかという話題になることも稀でした。話題になることと言えば、和食、why Japanese people…?のような文化的、政治的なトピックスが多く、たとえ率直で強い意見を交換し合っても、すべてが笑い話になってしまう軽快感が備わっていました。英国人たちは、自分たち独特のスタイルで日本滞在を謳歌していました。
80年代後半になると、現英国大使のポール・マデン氏も鎌倉にあった日本語研修所(2008年に閉鎖)に外交官扱いの学生として日本に居ましたし、前大使のティム・ヒッチンズ氏もすでに政治部で働いていて、彼らのようなエリートばかりが集まった国がイギリスなのだろうな、と当方も大いなる誤解をしていました。因みに、イギリスに住み始めてすぐにその誤解は解けました。笑
イギリスでは学生になる直前から自由が始まりますので、大学で勉強をする前後の数年間、ギャップイヤーで社会経験や放浪の旅に出たりして見聞を広める人もいます。学位を取った後も、すぐには就職しないで、自分が何をしたいかを見定めるための経験を求めます。もちろん、キャリアを求めて卒業後すぐに就職する学生もいますが、イギリスの外務省に入省した人たちでも、何かしらの個人的目標や野心を抱えていて、日本人のようなすごろく人生とは異なった歩みを運んでいることが明らかでした。社会人になってからもサバティカルという休暇を取って、就職中に本来の仕事とは無縁の活動に参加したりします。NGO(非政府団体)と企業とで交替に転職する特定の分野に志を抱いた人たちもいますが、NGOなどで働くことが、はっきりした転職とも言えなかった当時はサバティカルと呼ばれていたと思います。
日本政府と財団法人が30年以上前から推進しているジェットプログラムというのも、イギリスをはじめとする欧米の学生たちの卒業後のギャップイヤーの受け容れ先として利用したものと言えなくもありません。1,2年間、あるいは数年間の契約で、学校、地方自治体や企業のため、若い外国人大卒者が英語などの外国語を使って教育に携わったり、国際交流の懸け橋になったりしています。契約終了後、20代中~後半になった彼らの行く先は様々です。遅れてイギリスの外務公務員になる人もいますし、遅れて会社員になる人もいます。ここで、あえて「遅れて」と述べたのは、すごろく人生を意識して頂くためです。イギリス人ならば、人生のプロセスが異なると思うだけです。「俺は俺だ。(画一的な過程を送るよりも)自分の人生をデザインするのは自分自身しかない」ということでもあります。
日本でも、「サラリーマンと主婦で、老後は年金暮らし」というパターンのすごろく人生は昭和の遺物として扱われ、2017年の最近になって生き方そのものを見直す風潮が漂っていますが、当方は既に1980年代に英国人たちからその影響を受け、背中に負っていた重たいサイコロをどこかに放り投げちゃったかもな、と思っています。
勤労学生時代、社会人経験があるという点で大人たちからのウケは良かったのですが、本人は働きながら大学に通う体力的、且つ精神的な難しさに辟易していました。「若い頃の苦労は買ってでもしろ」という美学がまかり通る時代でしたが、本人は教員免許取得という目標のため、苦しい生活の中では必要最低限の学習で大学生活を切り抜けるようとしていただけに、美談でも何でもなかったのです。ただし、困難なことであっても克服するのは楽しいことだったんだな、と改めて認識するようになったのは、大卒後にイギリス人たちと付き合うようになってからのことでした。
困難を克服することに喜びを見い出すというのは、キリスト教の精神に由来しています。多くの制約の中でこそ、フレキシブルに想像を巡らせ、解決策を導き出すことは楽しいことです。
かなり以前のこと、才色兼備の日本人女優がMCを務めるテレビ番組で、イギリス人男性タレントがインタビューを受けていました。MCは彼から苦労話を引き出そうとしますが、「いや、苦労だとは思ってませんよ。神様が与えてくれた試練なのかもしれませんけど、僕はその試練を乗り越えるのが楽しかった。いや、自分の持つフレキシブルな考え方で乗り越える自信もあったから、試練でもなければ、困難でもありませんよね。ただ、経験そのものが楽しかったんです」最後まで、そのMCとイギリス人タレントとの話は噛みあいませんでした。日本の国内文化だけにどっぷり漬かったMCは、最後までイギリス人タレントの言うことの意味がよく判っていないようでした。「苦労した。努力したって言ってくれないと困る~」という表情をしていました。
「神が与えてくれた困難を克服してこそ、神に認められて幸せになれる」イギリス人に言わせれば、そんなことだと思います。我々がイギリス人を理解する上で、キリスト教の存在は外せません。
さて、社会が安定志向にある時代であれば、すごろく人生は悪いものでは無いと思います。ただ、一度そこから外れたら、なかなか元には戻れない排他的な構造が伴っています。ちなみに、安定志向の人たちが就職先として公務員を選ぶことがありますが、財政破たんしたら、民間だろうが行政だろうが関係なく潰れると思います。
イギリスでは、サッチャー政権の際に大ロンドン議会が廃止され、多くの公務員が職を失いました。(その後2000年に大ロンドンオーソリティとして復活しました)また、各省庁から専門官を外務公務員として派遣するべきであって、外務省本体は不要であるという議論が国会で成されることもあるのです。果たして公務員とは安定した職業と言えるのでしょうか? 少なくともイギリスでは安定職とは言えません。
当方はいまだに教職に就くことなく、こうして皆さまに文章を読んで頂く仕事をしていますが、読者の方々は様々ですので、当方としては、皆さまの役にたつようなイギリス話が伝えられていればいいなと思います。また、「君は何年も遅れているのだから…」と言われた経験を妻に言うと、「アナタは元祖イクメン主夫だし、イギリス外交官と結婚した『ほとんど』世界最初の男性だし、終身雇用の時代に私の転勤の度に転職を繰り返していたし、どちらかと言えば、遅れているどころか誰よりも時代の最先端にいる人ですよ」と流暢に当方の人生を要約してくれました。他の分野でも先駆者たる行いをしている筈だけど、地味過ぎるのかなあ、とは思いましたけど…。笑
その実、当方のこれまでの人生は家族のために出来る最善の手段を取って来ただけに過ぎないわけですが、そのふん切りをつけさせてさせてくれたのは、イギリス人たちから学んだ自由で明るい発想の仕方と、困難や制約の中でこそ見つけ出す本当の意味でのフレキシビリティだったかなあ、と感じ入っています。
大学に進んだ理由は教職を目指していたためです。そして、在学中にその準備を進めているうちに、教職に就く前に一般企業で働いた経験をしてみるべきだと考えを改めました。それを実行しようとしていたところで、今さらどうしようもない過去、しかも家庭の経済的事情から生じた個人的なことを、人事から「遅れている」と指摘されて、あたかも自分が社会の不適格者のような気持ちになったことがあります。
1986年から92年まで駐日イギリス大使だった故ホワイトヘッド卿です。日本大使を最後に、イギリス外務省を退官されましたが、その後会う度に名刺のタイトルが増えて行きました。ご人徳の高さが測られます。子供の頃は結構ご苦労されたようで、映画ハリーポッター第一話のロケ地となったクライスト・ホスピタルという全寮制の学校を経ています。オクスフォード大学のカレッジ(大学寮)も裕福ではない学生の集まるハートフォードですから、相当な苦学の後にキャリア組として外務省に入省されました。画像の笑顔のとおり、爽やかな人格者でした。
当時は、英語を話せる学生などほとんどいませんでしたし、筆記試験の成績も悪くなかったことと、多少弁が立つこともあって、面談で当方の言うことをよく聞いて下さった企業からは年齢制限を超えて内定を頂きました。
同時に、不思議な気持ちになったものです。体制から除外された筈なのに、その体制に順じようとしている自分が少し情けなく感じたのです。「良い大学を出て、良い就職をして…」という定められた人生のレールというか、すごろくのような人生設計をするヒトが大勢であった社会の中で、サイコロを振ることさえ許されない仲間外れの目にあっても、仲間に入るべくサイコロに手を伸ばしたことには、今から考えても滑稽さを禁じ得ません。
やがて、就職の成功から自己肯定観が芽生え、教員になる前に経験することなら、何ごとでも有意義だろうくらいに思っていました。そして、一旦その体制の中に埋もれてしまうと、過ぎ去った困難や問題意識は忘れてしまい、このまま終身雇用に甘んじても良かろうという自己保身しか考えなくなります。と、言うよりもレールに乗っかってしまうと思考停止に陥るのですね。
しかし、日本に居ながらにして、イギリス人たちと付き合うようになってから、同年代の彼らが、すごろく人生を歩む日本の学生や社会人たちとはまったく異なった独自性を身に付けていることが判って来ました。
これもハリー・ポターの場面です。今やこのプラットフォームは撮影のために長蛇の列を成していますが、この画像を撮影した2006年当時は誰も見向きもしなかったのですね。当方は、あの作品よりもローリングス女史の人生と人生観に興味が湧きます。
今でこそイギリスの大学進学率は40%弱(2010年。但し、統計によって数字は異なります)ですが、1970年代終わりのイギリスの大学進学率は5~6%でした。日本はその時、既に30%を超えて大学進学する時代です。1986年頃から当方は東京の英国大使館に出入りするようになって、外交官やその友人たちと集い、しょっちゅうパーティにも参加していましたが、まず誰も出身校の話はしません。
何を勉強したか、大学での専攻は何だったかという話題になることも稀でした。話題になることと言えば、和食、why Japanese people…?のような文化的、政治的なトピックスが多く、たとえ率直で強い意見を交換し合っても、すべてが笑い話になってしまう軽快感が備わっていました。英国人たちは、自分たち独特のスタイルで日本滞在を謳歌していました。
80年代後半になると、現英国大使のポール・マデン氏も鎌倉にあった日本語研修所(2008年に閉鎖)に外交官扱いの学生として日本に居ましたし、前大使のティム・ヒッチンズ氏もすでに政治部で働いていて、彼らのようなエリートばかりが集まった国がイギリスなのだろうな、と当方も大いなる誤解をしていました。因みに、イギリスに住み始めてすぐにその誤解は解けました。笑
イギリスでは学生になる直前から自由が始まりますので、大学で勉強をする前後の数年間、ギャップイヤーで社会経験や放浪の旅に出たりして見聞を広める人もいます。学位を取った後も、すぐには就職しないで、自分が何をしたいかを見定めるための経験を求めます。もちろん、キャリアを求めて卒業後すぐに就職する学生もいますが、イギリスの外務省に入省した人たちでも、何かしらの個人的目標や野心を抱えていて、日本人のようなすごろく人生とは異なった歩みを運んでいることが明らかでした。社会人になってからもサバティカルという休暇を取って、就職中に本来の仕事とは無縁の活動に参加したりします。NGO(非政府団体)と企業とで交替に転職する特定の分野に志を抱いた人たちもいますが、NGOなどで働くことが、はっきりした転職とも言えなかった当時はサバティカルと呼ばれていたと思います。
イギリス外務省本庁舎の廊下。この建物は築150年あまり。歴代の有名外交官もこの廊下を通りました。彼らの歩んだ人生も、強引なイギリス政府の意向と人道主義とに挟まれて精神的に病んだアラビアのロレンスのような例もあるように、決して平坦ではなかった筈です。
日本政府と財団法人が30年以上前から推進しているジェットプログラムというのも、イギリスをはじめとする欧米の学生たちの卒業後のギャップイヤーの受け容れ先として利用したものと言えなくもありません。1,2年間、あるいは数年間の契約で、学校、地方自治体や企業のため、若い外国人大卒者が英語などの外国語を使って教育に携わったり、国際交流の懸け橋になったりしています。契約終了後、20代中~後半になった彼らの行く先は様々です。遅れてイギリスの外務公務員になる人もいますし、遅れて会社員になる人もいます。ここで、あえて「遅れて」と述べたのは、すごろく人生を意識して頂くためです。イギリス人ならば、人生のプロセスが異なると思うだけです。「俺は俺だ。(画一的な過程を送るよりも)自分の人生をデザインするのは自分自身しかない」ということでもあります。
北京五輪マラソンで6位に入賞したマーラ・ヤマウチ。彼女もオクスフォード大で政治学の修士取得後に、イギリス外務省のキャリアとして入省しましたが、その後マラソンランナーに転身しています。すごろく人生から外れるにはそれなりの実力も必要ですね。
日本でも、「サラリーマンと主婦で、老後は年金暮らし」というパターンのすごろく人生は昭和の遺物として扱われ、2017年の最近になって生き方そのものを見直す風潮が漂っていますが、当方は既に1980年代に英国人たちからその影響を受け、背中に負っていた重たいサイコロをどこかに放り投げちゃったかもな、と思っています。
勤労学生時代、社会人経験があるという点で大人たちからのウケは良かったのですが、本人は働きながら大学に通う体力的、且つ精神的な難しさに辟易していました。「若い頃の苦労は買ってでもしろ」という美学がまかり通る時代でしたが、本人は教員免許取得という目標のため、苦しい生活の中では必要最低限の学習で大学生活を切り抜けるようとしていただけに、美談でも何でもなかったのです。ただし、困難なことであっても克服するのは楽しいことだったんだな、と改めて認識するようになったのは、大卒後にイギリス人たちと付き合うようになってからのことでした。
外交官になる前に意外なキャリアを持った友人たちが居ます。一人はブッチャー(肉屋)で、ロースト用のカービングナイフのセットを赴任先に持って来ていました。築地に一緒に行くと、包丁屋で過ごす時間が長い人物でした。また、ある人物は、地方都市のゴミ収集の仕事をしていて、財務省に就職後、経済専門官から外交官に転身していました。画像のように馬上警官から外交官になった人もいます。その人物曰く、馬上警官になって夢が叶ったので、その次の夢である外交職に就いたとのことでした。
困難を克服することに喜びを見い出すというのは、キリスト教の精神に由来しています。多くの制約の中でこそ、フレキシブルに想像を巡らせ、解決策を導き出すことは楽しいことです。
かなり以前のこと、才色兼備の日本人女優がMCを務めるテレビ番組で、イギリス人男性タレントがインタビューを受けていました。MCは彼から苦労話を引き出そうとしますが、「いや、苦労だとは思ってませんよ。神様が与えてくれた試練なのかもしれませんけど、僕はその試練を乗り越えるのが楽しかった。いや、自分の持つフレキシブルな考え方で乗り越える自信もあったから、試練でもなければ、困難でもありませんよね。ただ、経験そのものが楽しかったんです」最後まで、そのMCとイギリス人タレントとの話は噛みあいませんでした。日本の国内文化だけにどっぷり漬かったMCは、最後までイギリス人タレントの言うことの意味がよく判っていないようでした。「苦労した。努力したって言ってくれないと困る~」という表情をしていました。
この方はイギリス大使館の庭師でしたが、その後の人生も波瀾万丈です。当方の親友でもあり、人生も職業も充実した方です。
「神が与えてくれた困難を克服してこそ、神に認められて幸せになれる」イギリス人に言わせれば、そんなことだと思います。我々がイギリス人を理解する上で、キリスト教の存在は外せません。
さて、社会が安定志向にある時代であれば、すごろく人生は悪いものでは無いと思います。ただ、一度そこから外れたら、なかなか元には戻れない排他的な構造が伴っています。ちなみに、安定志向の人たちが就職先として公務員を選ぶことがありますが、財政破たんしたら、民間だろうが行政だろうが関係なく潰れると思います。
1986年、チャールズ皇太子とダイアナ妃が来日した際のイギリス大使館大使公邸の庭で撮影したものです。その後の皇太子の人生でも、当時にはとても想像できない出来事がたくさん起こりました。この時は、当方もまだ日本の商社マンで、主夫やライターになるとは夢にも思いませんでした。
イギリスでは、サッチャー政権の際に大ロンドン議会が廃止され、多くの公務員が職を失いました。(その後2000年に大ロンドンオーソリティとして復活しました)また、各省庁から専門官を外務公務員として派遣するべきであって、外務省本体は不要であるという議論が国会で成されることもあるのです。果たして公務員とは安定した職業と言えるのでしょうか? 少なくともイギリスでは安定職とは言えません。
パブリックスクールは就職先に特徴があります。この画像は最古のパブリックスクールとも言われるウィンチェスター・カレッジの中でも、天才の集まると言われるハウスの食堂です。彼らの多くが外交官、国家公務員などの官僚、弁護士などの司法関係者になります。理系に進むと、ビジネス界よりも研究機関や官僚になることも多いようです。おそらく、家柄が祖先に影響されているのかもしれません。ハロースクールやイートンカレッジの出身者には総理大臣が多いので、政治家へのレールを敷きやすい環境が整っていると思われます。ある意味、親の仕事を踏襲する傾向があるので、すごろく人生「的」と言えるかもしれません。
当方はいまだに教職に就くことなく、こうして皆さまに文章を読んで頂く仕事をしていますが、読者の方々は様々ですので、当方としては、皆さまの役にたつようなイギリス話が伝えられていればいいなと思います。また、「君は何年も遅れているのだから…」と言われた経験を妻に言うと、「アナタは元祖イクメン主夫だし、イギリス外交官と結婚した『ほとんど』世界最初の男性だし、終身雇用の時代に私の転勤の度に転職を繰り返していたし、どちらかと言えば、遅れているどころか誰よりも時代の最先端にいる人ですよ」と流暢に当方の人生を要約してくれました。他の分野でも先駆者たる行いをしている筈だけど、地味過ぎるのかなあ、とは思いましたけど…。笑
その実、当方のこれまでの人生は家族のために出来る最善の手段を取って来ただけに過ぎないわけですが、そのふん切りをつけさせてさせてくれたのは、イギリス人たちから学んだ自由で明るい発想の仕方と、困難や制約の中でこそ見つけ出す本当の意味でのフレキシビリティだったかなあ、と感じ入っています。
マック木下が電子書籍を出版します。
出版日は10月6日ですが、予約注文も可能です。
皆様のご協力をお願い致します。
書名「あくび、しゃっくり、ものもらい」
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マック木下
ロンドンを拠点にするライター。96年に在英企業の課長職を辞し、子育てのために「主夫」に転身し、イクメン生活に突入。英人妻の仕事を優先して世界各国に転住しながら明るいオタク系執筆生活。趣味は創作料理とスポーツ(プレイと観戦)。ややマニアックな歴史家でもあり「駐日英国大使館の歴史」と「ロンドン の歴史散歩」などが得意分野。主な寄稿先は「英国政府観光庁刊ブログBritain Park(筆名はブリ吉)」など英国の産品や文化の紹介誌。