「道の名は?」この景色の中に何かが… | BRITISH MADE

Little Tales of British Life 「道の名は?」この景色の中に何かが…

2017.11.07

高校生(17歳のlower 6th)だった娘を彼女の友人宅へ車で送迎した時のこと。「ここを通るとき、お父さんはいつもその曲だね」と、娘から不意に指摘された父親が口ずさんでいたのは、エドワード・エルガー作曲の『威風堂々』でした。「はて、なんでこの歌を口ずさみたくなるのだろう?」と思ったものの、自分でもその理由がよく分かりません。それ以来、通る場所によって感情の微妙な変化を起こしている自分自身に気付かされるようになりました。

ある道筋に差し掛かると、何かしら冗談やダジャレを言いたくなったり、また然る地域を通り過ぎるとレトリックに興じて巧(うま)い言い回しを考えてみたくなったりすることもあります。やたらと、気分の悪くなる地勢を感じる地域もあります。目に見えない何ものかに影響されていることは確かなのですが、何年もの間、何に影響されているのか。今一つその理由が分からなかったのです。しかし、ある時、No.1 Street, No.2 Street, そして、No.3 Streetという具合で、どんどん道の名前が予想通りに連なって行く住宅街を通りかかった時に、その理由の手掛かりを掴んだような気がしました。

20171107_london_008 ミントウォークと言っても、ミントティーのミントとは無関係です。このmintは造幣局のことです。近くに王室造幣所の地方分局があった場所で、周囲には銀行が林立していました。かつては、地方都市の金融街だったことが偲ばれます。

2000年間放置されたローマ街道

ところで、以前の記事「尾根道を辿(たど)ってロンデニウムに」でも申し述べましたが、道を目的地別に命名するシステムを発明したのは、ローマ人と言われています。一方、街を碁盤目のように区切って道筋に名前と番号を割り振り、法則的な表記で地点を示すことは中国起源の発明であるとされています。

古代ローマ式も中国式もどちらも明快で魅力的な方法です。古代ブリテン島でも展開したローマ式では、道が都市から目的地へと放射状に伸びて行くと、その道には目的地の名前が付けられました。ローマ人は紀元前2世紀までに、軍用と商用で併用するために、50㎝以上の厚みのある石積みの頑丈な道路を造成したのです。

しかも、ブリテン島のローマ街道は2000年以上に及ぶ長きに渡って、18世紀前半までほとんど何の整備もされることなく使用に耐え、且つ維持され続けただけでなく、現在のイギリス中の幹線道路を計画する上での基礎になっています。もちろん、尾根伝いに造られた道の中には、地滑りなどでその機能を失ってしまい、考古学的、且つ歴史的な価値しか残さなくなったローマ街道跡も存在します。

20171107_london_007 おおらかな安全管理はさておき、こうした工事現場を見ると、埋まっているものから歴史の手掛かりが見つかることがあります。この道路はかつてのローマ街道ではなかろうか、と工事現場を覗き込んではこうして画像に収めています。たまに石畳がむき出しなるので、その石畳の造成年代がいつ頃であるかと現場の人に聞くと、意外に手がかりになることを教えてくれます。「いや、これは古くないよ。せいぜい200年前」という具合です。さすが職人さんですね。

休憩所としてのマンションと一里塚

その古代住宅や砦の跡のことを古代ラテン語でMansioと言うのですが、まさに現代英語のマンション(邸宅)の語源です。もうこんなところで、過去のモノ(Mansio)と現代のコトバ(Mansion)とがつながって、歴史っぽい話になってしまいました。イギリス英語のマンションは豪邸を意味することになりましたが、日本に伝わると集合アパートを意味するようになったわけです。

街道沿いに休憩所として造られたバラック建てが実際のMansioの起源です。25~30kmごとに設置され、旅人の疲れをいやす場所としての役割を持っていたのです。日本の東海道などの街道で言えば、一里塚(4kmごと)のようなものでしょう。ロンドンから最寄りの場所と言うと、ほとんど開発されてしまって遺跡もほとんど出土しないのですが、London Victoria駅からSoutheast Themes Link鉄道で30分ほどの郊外、Orpington駅の脇にmansioの土台が残された小さな博物館があります。

Crofton Roman Villa
http://cka.moon-demon.co.uk/crofton-villa.htm

ロンドンに向かう尾根伝いの道沿いに位置しますので、ケント州のノースダウンズを見渡せる牧歌的な景色が広がります。そして、このローマ街道の両脇の土地は元来が野生の広葉樹林で蔽われていましたが、中世、近世の間に人間の手によって果樹園、牧草地、そして農地などに開発され、近代に至って住宅地へと変遷しています。

20171107_london_006 エッジヒルロード(丘の縁沿いの道)沿い家並みの庭側から50mも行くと急傾斜のカルスト地形になっています。尾根のエッジ(縁)からダウンズと呼ばれる丘陵地帯を一望に出来る景観です。あいにくその景観画像は用意できませんでしたが、地名に地形が反映されているということで、当方には貴重な道の名前です。

街道から区画整理された道へ

その住宅地の道の名前を見ると、それぞれの名づけに関するテーマが見えて来るのです。ロンドンへの街道脇に住宅地が増えて来たのは、18世紀半ばの産業革命以降です。労働者の確保のためにロンドン周辺の貧民窟(ひんみんくつ)は、ピーボディ財団などイギリス人を祖先に持つアメリカの慈善事業家たちによって次第に整備されます。しかし、ロンドン周辺はすぐに飽和状態になって住宅地は郊外へと拡大していきました。節目となったのは、2つの世界大戦後の復員兵の収容施設としての宅地です。戦争のために資源の枯渇した1915年頃と1945年頃に建てられたロンドン周辺の家はわりと安普請(やすぶしん)です。どちらもエネルギー改革(石炭から電気への転換)以前ですから、熱効率もよくありませんし、風呂場もありません。しかも、共同のトイレだったりするので衛生面が改善されるまでには20年以上(1950年代中ごろまで)掛かっています。先進国イギリスといえども、衛生のインフラが整ったのはつい最近のことなのですね。

そして、新興住宅がバスルーム付きへとシフトしていくのも戦後のことで、宅地造成される直前の光景は果樹園や畑でした。果樹はそのまま庭木として残されていくのです。そのため、ロンドン郊外にある拙宅では、隔年でリンゴと梨を買う必要がありません。そんな地勢の道路にはOrchard Laneとか、Peach Avenueなどの命名がされることもあります。

典型的な宅地造成と言えば、まず、果樹園や農場を楕円で囲う様に道路を造成し、その道路沿いに面して一軒家やセミデタッチ(二軒長屋)の家を建てて行きます。奥まったところにスペースがあれば、カルデサック(Cul de sac)という行き止まりの道や、川の支流が本流から分かれて再び本流に交わるようなクレッスント(三日月路)を造り、その道沿いにも家を建てていきます。こうして出来上がった道は、ローマ街道から伸びた支道になるわけで、道路設計者や行政が道に名前を付けて行くわけです。

20171107_london_003 グリニッジにあるけっこう有名な道路ですが、hahaにはちゃんとした由来があります。普通の塀に遮断されると両方向からお互いが見えなくなりますが、片側Aを塀と同じ高さまで盛り土して、塀の反対側の片側Bを塀の下の高さにすると、AはBを見下ろすことになります。その様子は、見下ろす側がhahaと笑える状況になっているという説があります。もちろん、諸説あります。

道のテーマ

新興住宅地の道の命名には特段の制約はありません。当方がエルガーの『威風堂々』を鼻歌にする地域は、イギリスの音楽家や作曲家の名前を道路名に使って1960年代に造成された住宅地です。娘の友人が住んでいたその住宅地に行くと、たくさんの音楽家に会えるような気持ちなって、いつも気分が良くなったものです。エルガーを例に取ると、彼の名前が付く地名はイギリス連邦諸国(コモンウェルス)内に数十か所ほどあります。Elgar Road、Elgar Avenue, Elgar Street, Elgar Closeという具合で、「通り」「路」「小路」「並木道」のような区別も設けられています。

20171107_london_005 Oak(樫の木)は清教徒革命の時に亡命を図ったチャールズ二世を救った象徴として、イギリス王室は樫の木を伝統的に大切に扱います。この画像のご機嫌な酔っ払い様の上にあるBroad Oak Roadはカンタベリーの街中を通る樫の並木道に命名された道路です。このパブの店主に聞いいたところ、この道路標識の入手経路はバーマンジーの骨董屋とのこと。店内にOakの文字があると縁起がいいのだそうです。

一方で、命名に無頓着で、センスの感じられないもの。つまり、先に述べたNo.1 streetのような住宅区画をロンドン郊外で見掛けることもあります。たぶん、造成が急務で通りの名前を考えている余裕などなかったのでしょう。思い掛けず多く見られるので、郊外の住宅地を訪れる時は好い話題になるのではないでしょうか?

さて、すでにお気づきなった方もおられましょう。当方が感情の微妙な変化を覚える理由。それはある道を通りかかった時に、見掛ける道の名前の表示板のせいだったのです。道の名前は当方の感情に訴えるだけでなく、その地勢を一般の人々にも印象付けてしまうものなのです。

印象を変えるネームロンダリング

道の命名の歴史を調べると11世紀のノルマン時代に発布された憲章にたどり着きます。当時のその場所に市場があれば「~マーケット」、肉屋があれば「~(ブッチャーズ)ストリート」、製業者が集まる通りであれば「~(メーカー)プレイス」という具合で、自然発生的な命名です。

時代が進むと、技術革新も進んで産業が変化したり、代々受け継がれて来た職業も変わったりすると、その成り行きで道の名前が変化することがあります。さらに再開発されて、新興の商業地や住宅地ができようものなら、モダンな名前に改名されてしまうこともあるのです。したがって、古い街に行くと、ひとつの道に3つも4つもカッコ書きで道の名前が書かれていることがあります。オクスフォードやウィンチェスターなどの古い街に行くと、わざわざ憲章が道の看板に書かれていて、「この道には少なくとも古代から5つの名前が付けられましたが、憲章では直近の名前を最高3つまでを道路表記することになっています」と記されています。直近と言っても、2~300年はさかのぼることもあります。

20171107_london_001 この画像のシャードではなく、右下のTanner Streetの標識にご注目下さい。Tannerとは皮なめし職人のことです。この場所はロンドンのバーマンジーマーケット近辺。かつては貧民窟で、ヒトの嫌がるキツイ仕事、皮なめしをする職人の集まる場所でした。職業が地名や通りの名前になった例です。19世紀まではRussel streetとも呼ばれた記録も残っています。

これまた以前にも申し述べましたが、ロンドンのメイフェア地区にはタイバーンという川が流れていました。今でも地下を流れていて、Mewsという常設骨董屋の地下街に行けば、その清流が見られることもお伝えしたことのあるあの川です。かつてオクスフォード・ストリートがタイバーン・ロードと呼ばれていた理由は、この川があの近辺に流れていたからです。そして、この川の役割のひとつが断頭台で流された血を洗うことでした。おまけにタイバーン・ロードと言えば、現在のオクスフォードサーカス辺りから、公開処刑場であったマーブルアーチまで罪人を引き回した通りそのものだったのです。いわゆる縁起の悪い、忌避のイメージを持った道名ですね。

20171107_london_002 かつてメイフェアの中心と言われたシェパード・マーケット。この男性の歩いているのはタイバーン川の上です。暗渠にされたのは18世紀ごろ。それまで羊飼いが羊の群れをその辺の公園から引き連れて来ていたのです。既に世界の制海権を握っていたイギリス帝国でしたが、ロンドンの中心部でも意外に牧歌的だったのですね。

18世紀の終わりまでに公開刑場は廃止され、現在のメイフェア近辺を現在の姿の原型に開発したオクスフォード伯爵によって改名されたことで、道のイメージが浄化されたという好例です。あたかもマネーロンダリングで、そのお金の存在意義が変化してしまうことと同じに思えてしまうのは当方だけでしょうか? 住宅及び商業地区としての開発が進められ、「ネーム」ロンダリングされると、その後は清潔な繁華街となり、1864年に百貨店のジョンルイスが登場します。日本では幕末の池田屋事件の頃です。

20171107_london_004 メイフェアはカフェも、レストランの種類も多い割には、(ロンドンの物価とは相対的に)高額な場所ではないので重宝します。イギリスのセレブリティもたまに見かけます。そして、ドアが開け放しの赤ランプも一軒だけ残っています。

しかし、歴史に興味が無く、オクスフォード・ストリートでお買い物と街の華やかな雰囲気を楽しんでいる人たちにとって、タイバーン・ロードの話はあまり有益な情報ではないようです。オクスフォード・ストリートに行くと、買い物に興味のない当方でも晴れやかな気分になれます。これも道の名前の印象による感情の変化です。嬉しそうに歩く世界中の人々でごった返す幸せの繁華街として世界に知られた道。ただし、オクスフォード・ストリートでは鼻歌混じりに浮かれて歩いているとスリやひったくりなどに狙われるのでご注意を。ロンドンの警官が言うには、被害者のほとんどが日本人なのだそうです。もちろん、ピックポケット・ストリートなどと不名誉な名前が付けられることはないと思いますが…。

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Text&Photo by M.Kinoshita

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マック 木下

マック木下

ロンドンを拠点にするライター。96年に在英企業の課長職を辞し、子育てのために「主夫」に転身し、イクメン生活に突入。英人妻の仕事を優先して世界各国に転住しながら明るいオタク系執筆生活。趣味は創作料理とスポーツ(プレイと観戦)。ややマニアックな歴史家でもあり「駐日英国大使館の歴史」と「ロンドン の歴史散歩」などが得意分野。主な寄稿先は「英国政府観光庁刊ブログBritain Park(筆名はブリ吉)」など英国の産品や文化の紹介誌。

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