チーズの濃さ
まずは、前回の謎解きから参りましょう。「アナタはイギリスのチーズの基本的な3種類を言えるか?」 以前からどこかの冊子で何度かお伝えしていることですが、チーズには熟成度があります。過去には、マイルド(熟成3か月)、ミディアム(5、6か月)、そしてマチュア(9か月)の3種類が一般的でした。近年では、さらに細分化してエクストラ・マチュア(超熟15か月)を含む5種類とか、ビンテージ種(2年)など5種類以上の分類へと広がりつつあります。ただ、当方には大したコダワリもなく、普段からマチュア以上の熟成度のチーズを購入しています。 チーズボードではありませんが、ティの席や食後には普通に見るチーズプレート。これらのチーズですと、ワインの方が合っているのかもしれませんが、食後にはウィスキーを定番とする当方には味が強めのスモークチーズが欲しいところ。お腹いっぱいなのに、どうしても手が伸びてしまいます。取るナイフを一本にしているのは、控えめにさせるため? あるいは躊躇させるためでしょうか。
チーズの熟成度について、一応基準が設けられていますが、各社で独自の製造拠点を持つイギリスの量販店の製品を実際に食べ比べてみると、熟成度の度合いもうま味も企業によってマチマチです。味の薄いマイルドは日本の一般的なプロセスチーズの味に近いと言いたいところですが、それでも日本のチーズは濃度もコクもイギリス製とは異なります。ちなみに、日英の優劣を述べているわけではありません。
チーズフレーバーマップ(参考、英文)
www.cheeseboard.co.uk/cheese_flavour_map
但し、日本に戻るとイギリスのチーズが恋しくなります。例えば、たまに行く銀座のバーでチーズトーストを食べた時の話。「マック、締めにチーズトーストを食べるかい?」と聞いてくれたママさんから手渡された皿の上には、ふんわり厚切りトースト(イギリスでは厚切りのトーストはあり得ません)の上に美味そうに溶けたチーズ。しかし、香りが薄いような…。舌の上に載せると 「あれ?味がない」 急性の味覚障害に陥ったかと思ったほどです。「どこの製品?」と聞くと、堂々たる日本の有名企業のスライスチーズでした。それだけ、当方には日本のチーズの味わいが薄く感じられるのですが、同時に日本人にはイギリスのチーズの味は濃すぎるという説が理解できたような気がしました。
左はチェダーのエクストラマチュア、右はマイルド。海外で購入するとイギリスの価格の3~4倍することもありますが、たまには、どうしても食べたい!
お好み次第ですが…
当方の食べ方と言えば、夕飯後のデザートとしてアソーテッド・チーズのチーズボードを始めとして、熱々のパスタには濃厚なマチュアチェダーをすり下ろしたチーズのフリカケ、チェダーやスティルトンなどを適宜ブレンドしたグラタン類、ハム&チーズのトーストサンドウィッチなどのスナック類、そして料理の隠し味という楽しみ方しています。特にハム&チーズ・サンド(以下、H&CS)を朝食として食べる時はマイルドチェダーを、そして昼食や夕飯として食べる時はマチュアチェダーを選びます。グリーシースプーンズ(脂ぎったスプーン)と呼ばれる街角の場末のカフェで持ち帰り用を作って貰うと、チーズのタイプやパンの種類まで指定できます。
イギリスのリンゴ、グラニー・スミスとウェンズリーデイルチーズの前菜。掛かっているオリーブ油からも、ほんのりした甘みを感じられます。前菜の役割は食欲を促すことですが、メインにもこのチーズが出て来て欲しかったことを思い出します。ブドウやリンゴはチーズと仲良しのフルーツです。ナッツもクランチーな食感や、チーズを引き立てる香りを添えてくれます。
メイフェアで働く会社員だったころ、H&CSは早朝出勤での常食でした。事務所の机に向かって、熱いハムの上でとろけるチーズが滑り落ちてこぼれそうなトーストに、ハフハフとかじりついていた時、女性邦人の同僚に言われました。 「そのお金でパン2斤買えるよ」
日英婚ほやほやの在英邦人として節約生活を始めたばかりの彼女の言うことは正しいし、ロンドンの物価は朝から高いのです。 「自宅からハムとチーズとパンを調理しないで持ってくればいいじゃん」と、彼女は示唆してくれました。 実際に自宅から食材を持参する貧乏(性)なイギリス人は多いのですが、カリカリのトーストで挟まれたとろけるチーズと、ホカホカのハムとの組み合わせを会社の給湯室に置かれた電子レンジでは調理不可なので、当方はたまに贅沢(?)をしていました。会社によっては、専用のホットサンドウィッチメーカーを設置しているところもありましたが、メインテナンスが悪いと(当時の製品は)すぐに壊れていました。欠かせぬアイテムと断言するイギリス人もいます。
余談ですが、以前拙宅に泊まりに来たベジタリアンの友人は、その香りを嗅いでトーストを悔しそうに見つめながら、チーズの個体をもぐもぐしていました。その時、彼女は名言を残しています。”Why Ham is Meat?”(なぜハムは肉なのか?) この言葉については、いずれコンフォートフード4/4「ハム」の項で語らせて頂きます。
典型的なハム&チーズトーストサンドイッチ。自宅にはテナントが入っているので、ロンドンに帰るとホームレスです。ロンドンのAir B&Bで備え付けのトースターと電子レンジを使って調理。チーズはグリルかオーブンで溶かし、Lea & Perrin Sauceで仕上げるのが理想です。
チーズトーストに欠かせない元祖ウスターソース。オレンジ色のレッドレスターチーズは溶けますが、白っぽいウェンズリーデイルは常温のままでも崩れやすいクランブル系。フルーツやチャットニーと共に味わうのに向いています。ここだけの話、シチュー、カレーライス、ミートソースなどにコクが足りないと感じるとチーズを下ろして投入しちゃいます。少量でも味わいが変わります。
突き刺さるクリスタル
マチュア以上に高濃度なチーズは、冷蔵庫から取り出したばかりの固形ですと、ナイフで切っている時にチーズの結晶がジャリッと微かな音を立てます。口に入れると、その結晶は口の中に突き刺さります。特に舌の一点に突き刺さると、わりとすぐに体温でとろけて口の中にうま味がパッと広がります。チーズ好きの当方には至福の瞬間です。ちなみに、アメリカではマチュアチェダーのことをシャープチェダーと言います。アメリカ人の舌の上でもチーズの結晶はシャープに突き刺さるのでしょう。結晶が口内を突き刺す快感にも増して食感の快感を加えるのが、溶かしてから固めたチーズ・クリスプです。どんな形状でも構いませんが、普通に切ったものを皿に載せてラップをせずに電子レンジなら30秒、(テフロンなどのコーティングされた)フライパンなら1分以上、100度以上のオーブントースターであれば鉄板の上で大量に溶かす方法もあります。熱して溶かしたものを、一旦冷ましてしてから口にするクリスピー感と濃いチーズの芳醇な香りとの合わさった幸福感はマチュア以上に熟成したチーズでなければ味わえません。
チーズクリスプの作り方は、右のように切ったチーズを600wの電子レンジで10~20秒間溶かすだけです。左のように溶けたら、しばらく放置。オーブンパンで大量にこしらえることも可能です。
但し、味覚は人それぞれですし、身体が充分に乳製品に対応できるかどうかという課題もあるかもしれません。イギリスのチーズは濃すぎて苦手という在イギリス生活の長い邦人にも出会ったことがあります。さて、もうひとつ、日本人の苦手な、いわばコンフォートではないチーズ料理を如何に克服するかを紹介してみましょう。
口の中でブレーキがかかる
イギリス人と一緒のハイキングでの話。当方がイギリスで国内旅行する目的は散策が中心です。良い景色を観るため、日に何キロも歩き回るわけですが、途中には自販機もなければ、コンビニもありません。もちろん、パブからパブへと渡り歩くウォーキング方法もありますが、そうすると景勝地が限られてしまいますし、飲み歩きの酔っ払いツアーになってしまいそうです。 メニューにゴーストチーズを見つけたので注文。ゴーストが出て来るだけでも驚くのに、グリルされたゴーストとは如何に?
ゴーストチーズの正体はゴート(山羊)チーズでした。単なる誤植ですが、面白いから訂正しないのだそうです。オーブンでフォンデュのように熱く溶かしたチーズをパンの切れ端やクラッカーで頂きました。山羊のチーズはニオイがキツイと言う人もいますが、グリルされると、むしろそのニオイが芳香となって漂います。もちろん、美味しくない筈がありません。画質は許されたし
景観を重視する散策には、必然的にリュックに食べ物が入ります。フルーツ、パン、チーズ、(少し)洗った生野菜、ナイフ、飲料、バイト類(雷おこし風のスナックなど)がイギリス人には夏の標準仕様です。これらを背負いながら歩いた末に辿り着いた絶景ポイントで、大量に散乱した緑色のつぶらな物体、すなわち羊の落とし物など気にもせずに腰を下ろして食事にありつきます。パブリックフットパスでは家畜の落とし物は避けられません。但し、キツネの落とし物には気を付けて下さい。エキノコックスがありますから。
夏といえどもイギリスですから常温のチーズは固いままです。そのチーズと生野菜をゴワゴワしたイギリスの粗挽き全粒粉のパンで挟むわけですから、食感は皆さまの予想通り。2度、3度と噛むうちに咀嚼運動が停止するのです。無理に動かすと歯が抜けるのではないかと思うほどの吸着力です。口の中の水分のすべてを吸い取ったパンのグルテン質に絡まったチーズは口の中でなかなか溶けずに咀嚼の摩擦係数を最大限に維持します。特に頬肉の内側と歯茎との間に挟まったチーズとパンの組み合わせは新種の拷問のようです。邦人は歯の上下運動が出来ない苦痛を覚えて、水やジュースで懸命に流し込みます。しかし、イギリス人たちはこの食感を楽しんでいます。「このチーズ、おいしいね」と言う彼らの味覚や食感覚。ワケが判りません。
邦人としてその後の対策に用いたのは、ピクルス類とチャットニー(チャツネ)の持参です。そのヒントとなったのは、プラウマンズというパブ飯でした。チーズとチャットニーとパンを合わせた食感に安堵すると同時にチャットニーがチーズの味を引き立てることも判ってきました。その後、もっと有効だったのはコールスローです。要するに、パンとチーズを同時に咀嚼するには、ある程度の水分が必要であったという話です。
プラウマンズには、チーズ、ハム、パテなどの選択肢があります。チーズの場合、ピクルスやチャットニーがないと、当方には咀嚼不可能です。
ヨークシャーに向かうヴァージン列車で移動中の昼ごはん。キャロットのチャットニーで栄養バランスが取れています。パンもゴワゴワの全粒粉で食物繊維を確保しながら、モルトを混ぜてもっちりした食感を出しています。いずれ、イギリスのパンについても語らねばなりますまい。
イギリス人を真似て食べた違和感から、イギリス食がマズイと伝導する日本人が数多くいることは仕方ないとしても、在英期間中に邦人の皆様がそれなりに美味しく頂く方法は、ご本人が見つけるしかありません。困難を克服して得られたコンフォートであるからこそイギリスの美味しさの真髄に近づいたと言える(かもしれません)のです。
この一件を乗り越えてから、プラウマンズ・サンドイッチは当方の好物になりました。
ちなみに、咀嚼にブレーキが掛かる話は、イギリスでは他の食材(安いソーセージなど)でも経験することですので、この件はいずれソーセージの項で。
Age is something that doesn`t matter unless you are cheese
ロンドンのセルフリッジの北側に、Mドナルドやスタバ(使用可?)など、大資本のチェーン店が全く見当たらないメリルボーン・ハイストリートがあります。この周辺の路地裏も含めた地域にはイギリス三大美味いものを揃えた名店が集結しています。地主と行政体とが協力して、普通のハイストリートではなく、各店舗に個性を持たせるために、優良店や遠くの名店を誘致して計画的に出店し、健全でさわやかな商店街として2000年代の初めから注目されている地域です。 床面積400㎡の小規模店ですが、チーズだけでこれだけのスペースを維持します。
イギリスだけでなく、ヨーロッパ全域のチーズと惣菜を扱う名店la fromagerieで取材すると、店主いわく、天然かつ伝統製法で食材を扱かえる技術の高い製造者が減っているので、その製造者たちに出資することや、行政と緊密にやり取りすることで衛生や食料管理面でのコンプライアンスをクリアし、包括的なサポート体制を整えたビジネススタイルで品質を維持しているということでした。
当方が以上に述べてきた話は、イギリスの一般人や当方にとって大量生産されるチーズが、どんなものだったかという内容でしたが、その反面で取り残された手工業生産、昔ながらの手作りが今や貴重品、高級品になってしまいました。イギリスで古くから伝わるチーズはヨーロッパの様々なチーズと同様に、元来がローカルなもので、同じ種類でも同じ名前でも村が変われば、家が変われば、日本の漬物と同様にまったく味が異なるということです。アニメ「アルプスの少女」で見たチーズ製造の場面は、わずか40~50年前まではイギリスの農家の一般家庭で見られた光景だったのです。
大量生産、大量消費ならではの嬉しい価格。
また、多くの美味しいチーズに共通しているのは加齢による熟成度です。小見出しに使った引用英文が述べるように「あなたがチーズでない限り、年齢は問題ではございません」ので、マチュアなチーズを口に含んでウィスキーで溶かしながら過ごす時間、すなわち、積み重ねて来た過去の出来事を味わい、明日は何をしようかなと考える時間こそがコンフォートなのですね。どなたも日頃から厳しい仕事や生活をされているのですから、チーズをつまむ小さな永遠の時間を設けることでコンフォートな空間を確保できます。ちなみに、マイルドチェダー(クリームチーズや、スモークチーズも可)と秋田名物のいぶりガッコとの組み合わせは、モルトウィスキーや黒糖焼酎のスモーク・アールグレイティ割りのアテとして個人的におススメです。もちろん、ウィスキーの場合は銘柄にも拠りますので、その辺はご随意に。
邪道なチーズ料理と言われるかもしれませんが、チーズと海苔の相性は抜群です。海苔の上に載せたチーズを電子レンジで融かし、焼餅に醤油を絡ませて巻くだけ。また、みりんと醤油を注いで熱したフライパンで味付けした焼き餅を溶けたチーズに載せる食べ方もおススメです。ああ、邪道大好き。
関連リンク
「イギリスの三大美味しいにアクセス」 コンフォートフード・シリーズ その1/4
コンフォートを見つける達人
「英国人のほっこり」ーコンフォートフードについてー
マック木下
ロンドンを拠点にするライター。96年に在英企業の課長職を辞し、子育てのために「主夫」に転身し、イクメン生活に突入。英人妻の仕事を優先して世界各国に転住しながら明るいオタク系執筆生活。趣味は創作料理とスポーツ(プレイと観戦)。ややマニアックな歴史家でもあり「駐日英国大使館の歴史」と「ロンドン の歴史散歩」などが得意分野。主な寄稿先は「英国政府観光庁刊ブログBritain Park(筆名はブリ吉)」など英国の産品や文化の紹介誌。