2014年9月の本誌で紹介した記事「職人さんたちの学校」で、liveryというテーマをご紹介しました。その際、Livery Schoolの日本語表記をリブリーと表記しています。当時、Liveryと言っても英国人にさえほとんど知られていない組織でした。しかし、今や日本の雑誌ではリヴァリ表記で紹介されるようになりましたので、当方も時代の趨勢になぞらえて、リヴァリと表記することにします。(でも、相変わらず、liveryを知るイギリス人は少ないし、英語の発音はリブリーに近いんだけどな~) また、今回は当方とは30年来の友人が最高経営責任者を勤める14世紀発足のリヴァリ・カンパニーの事務所に潜入した体験を綴らせて頂きます。お急ぎの方は、最後の「ピーターのリヴァリ・カンパニー」を先にお読みください。
まず、リヴァリの成り立ちに遡るギルドとは、中世が起源の職業別組合ですが、当初はイギリス王室から独占事業体とみなされて、取り締まり(独占禁止法など)の対象とされていました。しかし、ギルドから税収を得る代わりに、王室が商売上の許可や特権を与えるとなると、技術や商業のノウハウを維持、継承していくために必要な徒弟制度が重視されて、やがて王室の庇護を受ける立場へと転化します。しかし、17世紀の終わりには商業資本や産業資本など新しいビジネスと古くからのギルド体質との間で対立が起きて、ギルドの統制自体が弱体化していきます。ということが高校までの教科書に書かれていることです。
さて、教科書に載っていない事実はここからです。ロンドンのギルドは制度的に弱体化する一方で、政治的にも経済的にも強権的な組織として存続し続けました。14世紀のギルドが、それぞれの業種でロンドン全域の商工業を牛耳っていたタイミングで、リヴァリ・カンパニーとして法人化する勅許(ロイヤル・チャーター)を王室から受け取ります。すなわち、同業者組合の発言力を高めるために、制服(リヴァリ)を着用した法人格としてその存在を強化し、中央政府の諮問機関となって市場への参入規制、賃金管理、労働条件、業界標準、品質管理、徒弟制度を通じての人材管理など多くの権利を掌握することに成功します。そして、その特権でもうけたお金を使って不動産などの運営収入を永続的に得る土台を築くことになるのです。要するに、技術や市場を合法(王による認可)的に独占して、お金を生むシステムを中世で既に備えていたからこそ、リヴァリ・カンパニーは現在に至って、長年存続して来られたのです。
やがて、時代を経ると産業形態はどんどん変化し、カンパニーが責任を持っていた徒弟制度など人材管理のシステムと権威が弱体化していきます。極端な例で言えば、伝統的な下駄の職人に、新しい技術の皮靴は作れないということです。そうなると、業種ごとに設立された多くのリヴァリ・カンパニーの存在意義が問われる事態が展開し、その存続には新たなる試みが求められることになります。
リヴァリ・カンパニーズには、魚商、小間物商、毛織物商、毛皮屋、金細工師などの12大カンパニーの他に、100以上に及ぶ業種別の中小カンパニーが現存しています。14世紀までに社会貢献する経済団体として認める一方で、不動産収入などによる資金力を背景にして、政治面でも発言力を強めていくことになります。やがて18世紀までには、その利権の絡んだ発言力は、ロンドン行政や国の政権運営を停滞させる要因(弊害)になっていきます。そして、時代の流れにそぐわない古い体質の既得権を継承する状態のまま、リヴァリ・カンパニーズはヴィクトリア時代を迎えるのです。
教育に金を出す。主にこれが伝統を存続するためにリヴァリ・カンパニーズが行った改革と言われています。単に言葉の違いだけに聞こえるかもしれませんが、カンパニーが生き残るために自らを変質させたという見方も可能である、と(当方は)思うのです。改革なり、変質なり、どこのカンパニーでも生き残るためには、変わることが求められる時代を迎えていたのですね。リヴァリ・カンパニーはその組織の存続を最優先するために徒弟制度を残すとともに、職人養成所のリヴァリ・スクールを私立のパブリックスクールなどに変換させ、近現代社会に適応してきました。2014年9月の当コラムで紹介した「職人さんたちの学校」では、リヴァリ・カンパニーの改革や変質に伴って、なめし皮職人を養成する職業訓練校を名門パブリックスクールへと変質させた例を述べたわけです。
注)本来、調べれば判りそうな蘊蓄(うんちく)などは述べないことにしていますが、リヴァリ・カンパニーの歴史はあまりにも複雑でしたので、いくつかの文献を元に出来るだけ簡単にまとめてみました。説明が多少強引になってしまったことはご容赦下さい。
最初は甲冑(よろい)と兜(ヘルメット)を作る26名から始まったギルドで、ばら戦争の最中1453年にはヘンリ6世から全カンパニーの中でも初の勅許状を受けては、技術や産業の変質と共に、楯や他の金属武具のメーカーの所属するいくつものカンパニーを統合し、ドイツやイタリアの武具生産にも強い影響力を残したそうです。
ヨーロッパ内の戦争が落ち着き、戦争のスタイルが近代化してくると、武具職人の需要が減る一方で、技術力を持て余した職人たちの失業対策として、外部のカンパニーから真ちゅう細工職人を受け容れては新たな養成も始めることで、現在のカンパニー名に至ったということです。それぞれのカンパニーには、吸収、合併、消滅などの多くのドラマが歴史に残されています。余談ですが、技術力を持て余した現象は明治時代の日本でも起きています。廃刀令で職を失った刀鍛冶や彫金職人は、象牙細工の根付を作るようにと、明治政府に強制されました。まさに、職人の失業対策事業であったわけです。同時に、明治政府の目論見は外貨の獲得でもあっただけに、輸出品だった当時の根付は今でも世界中(ロンドン、ニューヨーク、中東、中国などバブル経済を体験した国や都市)に散らばったままです。
ともあれ、現在、ピーターの率いるカンパニーは、真ちゅうだけにとどまらず金属関係の独自研究はもちろんのこと、材料科学分野の研究機関に投資、協賛し、且つ科学系の大学に研究資金を提供し、優秀な学生には返還義務の無い奨学金を提供しています。その主な財源は過去の特権で得た不動産収入だそうです。つまり、清廉潔白が好しとされたヴィクトリア時代にリヴァリ・カンパニーの多くが資産公開など国会の追及に遭いながら、その圧力に屈せずに生きながらえたのも、いろいろな学校や研究団体への財源としてスポンサーになったからなのですね。政府と行政とのドロドロした関係を政治力とお金とで解決した典型例です。また、現代に及んで各カンパニーの資産公開はほとんど行われていません。
ところで、そのピーターですが、彼は日本にも二度ほど駐在したことのあるイギリスの高級外交官僚でした。彼は科学のスペシャリストではありませんが、政治のスペシャリストです。彼の口上に叶う人間を見た記憶がありませんので、近年になって彼がクラークとしてこのリヴァリ・カンパニーに望まれて採用されたことは何の不思議もありません。一方的な思い込みかもしれませんが、当方としてはイギリスの歴史に名を刻む人物が友人であることは誇らしく思えます。
Peter Bateman
https://www.gov.uk/government/people/peter-bateman
また、リヴァリ・カンパニーが存続してきた歴史を俯瞰すると、かつて、マーガレット・サッチャーが残した言葉が思い起されます。「外務省の連中と話すのが一番嫌い。だって、あの人達の話し方は、まるで玉虫色なのよ」ストレートな性格と高圧的な物言いで有名になった『鉄の女』に嫌われるとは、イギリスの外交官たちの(狡猾な?)教養の高さが知れるということでしょうか。企業だけでなく、リヴァリ・カンパニーの責任者として、彼らが雇われてきたのはサッチャー元首相を煙(けむ)に巻くほどのその実績と実力ゆえかもしれません。ともあれ、リヴァリ・カンパニーは現代でも政治力と資金力とを駆使し、a person of culture(イギリス的教養?)の象徴然として、今後もその存在を堅固に保っていくことは間違いないでしょう。
歴代のクラークスの名前が刻まれた銘板。ここでは1710年から現代までですが、階段の右わきには14世紀まで遡ってクラークの氏名が刻まれています。一番下に現クラークであるPeter Batemanの氏名が刻まれています。
そもそも何でこんな古臭いものが…
ロンドンに限らず、イギリスの制度や慣習には古代や中世まで遡るものが少なくありません。そして、何の主張もしない、目立たぬ組織もあります。伝統と格式の国だから、と言う人もいますが、それなら日本の歴史も似たようなものだし、我々庶民とは離れたところで政府や財団などによって守られては、有形無形の伝統が継承されていることはどなたもご存じのことでしょう。そこで、14世紀以来、知られざる伝統を守る抜くリヴァリ・カンパニーについて簡単に述べてみます。まず、リヴァリの成り立ちに遡るギルドとは、中世が起源の職業別組合ですが、当初はイギリス王室から独占事業体とみなされて、取り締まり(独占禁止法など)の対象とされていました。しかし、ギルドから税収を得る代わりに、王室が商売上の許可や特権を与えるとなると、技術や商業のノウハウを維持、継承していくために必要な徒弟制度が重視されて、やがて王室の庇護を受ける立場へと転化します。しかし、17世紀の終わりには商業資本や産業資本など新しいビジネスと古くからのギルド体質との間で対立が起きて、ギルドの統制自体が弱体化していきます。ということが高校までの教科書に書かれていることです。
各部屋はもちろん、調度品が凄すぎて、言葉になりません。世界の富の集積地と言えば、メイフェアと言われますが、シティはメイフェアよりも1000年以上の長い歴史を持つだけに、計り知れない富と人間の業とが渦巻いているように感じられます。
さて、教科書に載っていない事実はここからです。ロンドンのギルドは制度的に弱体化する一方で、政治的にも経済的にも強権的な組織として存続し続けました。14世紀のギルドが、それぞれの業種でロンドン全域の商工業を牛耳っていたタイミングで、リヴァリ・カンパニーとして法人化する勅許(ロイヤル・チャーター)を王室から受け取ります。すなわち、同業者組合の発言力を高めるために、制服(リヴァリ)を着用した法人格としてその存在を強化し、中央政府の諮問機関となって市場への参入規制、賃金管理、労働条件、業界標準、品質管理、徒弟制度を通じての人材管理など多くの権利を掌握することに成功します。そして、その特権でもうけたお金を使って不動産などの運営収入を永続的に得る土台を築くことになるのです。要するに、技術や市場を合法(王による認可)的に独占して、お金を生むシステムを中世で既に備えていたからこそ、リヴァリ・カンパニーは現在に至って、長年存続して来られたのです。
何気ない調度品まで卓越した職人の技術が…
徒弟制度はどうなった?
17世紀以前、ひとつのリヴァリ・カンパニーを例に取れば、組織内ヒエラルヒの頂点は組合長と幹事数名、次席はリヴァリマンというメンバー、三番目の身分は平(ひら)の組合員とヨーマンリ、そして最下層は徒弟というそれぞれの役職で構成されていました。リヴァリをネットで検索すると「制服」と出てくるのは、カンパニー内の階級によって制服が決められていたためです。その制服は経済力を背景とした強権な政治結社としての象徴でもありました。よく知られた制服と言えば、今でもロンドン塔辺りで見かけるヨーマンの赤い制服でしょう。ビーフィーターの正装、ヨーマン・オブ・ザ・ガードはそれらの制服にデザインが似ています。やがて、時代を経ると産業形態はどんどん変化し、カンパニーが責任を持っていた徒弟制度など人材管理のシステムと権威が弱体化していきます。極端な例で言えば、伝統的な下駄の職人に、新しい技術の皮靴は作れないということです。そうなると、業種ごとに設立された多くのリヴァリ・カンパニーの存在意義が問われる事態が展開し、その存続には新たなる試みが求められることになります。
リヴァリ・カンパニーズには、魚商、小間物商、毛織物商、毛皮屋、金細工師などの12大カンパニーの他に、100以上に及ぶ業種別の中小カンパニーが現存しています。14世紀までに社会貢献する経済団体として認める一方で、不動産収入などによる資金力を背景にして、政治面でも発言力を強めていくことになります。やがて18世紀までには、その利権の絡んだ発言力は、ロンドン行政や国の政権運営を停滞させる要因(弊害)になっていきます。そして、時代の流れにそぐわない古い体質の既得権を継承する状態のまま、リヴァリ・カンパニーズはヴィクトリア時代を迎えるのです。
革新と変質
倫理観の強い社会を生み出したヴィクトリア女王在位期間を、社会改革の時代と言う学者もいます。自己権益を守るために政治を操るリヴァリ・カンパニーズによって生じた混乱と分裂状態の続いていたロンドンの行政に対して、グラッドストーン首相などの率いる国会は改革のメスを入れる必要に迫られていたのですが、伝統という鎧で武装したリヴァリ・カンパニーズの存在ゆえに改革には困難を極めました。ロンドンの自治体を構成する主な権力者たち自体が、政治面および経済面で既得権を独占するリヴァリ・カンパニーズのメンバーですから、政府が公明正大な会計報告や行政報告を求めても、あの手この手ですり抜けてしまいます。しかし、やがて、ギルド本来の権威と機能を失っているにも関わらず、不透明な既得権の温床となり果てたリヴァリ・カンパニーズに対する批判は高まります。1876年に国会レベルで、所得や固定資産の調査を強制執行することが議決されると、ようやくリヴァリ・カンパニーズは改革を余儀なくされる事態であることを悟り、自らの特権や資産を保持するために、教育投資活動に着手するという大義名分を打ち出します。教育に金を出す。主にこれが伝統を存続するためにリヴァリ・カンパニーズが行った改革と言われています。単に言葉の違いだけに聞こえるかもしれませんが、カンパニーが生き残るために自らを変質させたという見方も可能である、と(当方は)思うのです。改革なり、変質なり、どこのカンパニーでも生き残るためには、変わることが求められる時代を迎えていたのですね。リヴァリ・カンパニーはその組織の存続を最優先するために徒弟制度を残すとともに、職人養成所のリヴァリ・スクールを私立のパブリックスクールなどに変換させ、近現代社会に適応してきました。2014年9月の当コラムで紹介した「職人さんたちの学校」では、リヴァリ・カンパニーの改革や変質に伴って、なめし皮職人を養成する職業訓練校を名門パブリックスクールへと変質させた例を述べたわけです。
注)本来、調べれば判りそうな蘊蓄(うんちく)などは述べないことにしていますが、リヴァリ・カンパニーの歴史はあまりにも複雑でしたので、いくつかの文献を元に出来るだけ簡単にまとめてみました。説明が多少強引になってしまったことはご容赦下さい。
ピーターのリヴァリ・カンパニー
さて、わが友Peter Bateman(以下、ピーター)がクラーク(最高経営責任者。企業で言えばC.E.O)を勤めるThe Worshipful Company of Armourers and Brasiers[甲冑(かっちゅう)師と真ちゅう細工師の名誉組合]も、1322年の発足以来、以上のような歴史に巻き込まれながらも現存するに至っております。 最近のアーマーと言えば、激しい運動中の筋肉を保護するアンダーアーマーが一般化しつつありますが、上下全身に着けると確かに甲殻類の生物のように体が保護される気がします。それにしても、画像のアーマー(鎧:よろい)重そうだし、夏は暑そうですね。軽量化は技術力や化学を発展させましたが、最後まで残った課題は関節部分の強化だそうです。
最初は甲冑(よろい)と兜(ヘルメット)を作る26名から始まったギルドで、ばら戦争の最中1453年にはヘンリ6世から全カンパニーの中でも初の勅許状を受けては、技術や産業の変質と共に、楯や他の金属武具のメーカーの所属するいくつものカンパニーを統合し、ドイツやイタリアの武具生産にも強い影響力を残したそうです。
a bronze ornamental campaign canteenの直訳は青銅製装飾遠征弁当箱。ピーターの説明では「中世ピクニック用バスケット」で、騎士が戦地などに赴く際に携帯したとのこと。ちなみに、画像のバスケットは18世紀に作られたもので、装飾はさほど施されていないシンプルなものだそうです。
ヨーロッパ内の戦争が落ち着き、戦争のスタイルが近代化してくると、武具職人の需要が減る一方で、技術力を持て余した職人たちの失業対策として、外部のカンパニーから真ちゅう細工職人を受け容れては新たな養成も始めることで、現在のカンパニー名に至ったということです。それぞれのカンパニーには、吸収、合併、消滅などの多くのドラマが歴史に残されています。余談ですが、技術力を持て余した現象は明治時代の日本でも起きています。廃刀令で職を失った刀鍛冶や彫金職人は、象牙細工の根付を作るようにと、明治政府に強制されました。まさに、職人の失業対策事業であったわけです。同時に、明治政府の目論見は外貨の獲得でもあっただけに、輸出品だった当時の根付は今でも世界中(ロンドン、ニューヨーク、中東、中国などバブル経済を体験した国や都市)に散らばったままです。
平和な時代になると職人さんたちは、鎧を作る必要が無くなります。必然的に鎧の強度基準、技術、そして品質を維持するための管理制度も意味が無くなると、ギルドはその権威を失います。そこで、職人さんたちは武器ではなく、工芸品を創り出す芸術家や生活物資を製造する技術職員へと転向していきますので、所属していたギルドやリヴァリ・カンパニーの管轄する範囲も変化します。
ともあれ、現在、ピーターの率いるカンパニーは、真ちゅうだけにとどまらず金属関係の独自研究はもちろんのこと、材料科学分野の研究機関に投資、協賛し、且つ科学系の大学に研究資金を提供し、優秀な学生には返還義務の無い奨学金を提供しています。その主な財源は過去の特権で得た不動産収入だそうです。つまり、清廉潔白が好しとされたヴィクトリア時代にリヴァリ・カンパニーの多くが資産公開など国会の追及に遭いながら、その圧力に屈せずに生きながらえたのも、いろいろな学校や研究団体への財源としてスポンサーになったからなのですね。政府と行政とのドロドロした関係を政治力とお金とで解決した典型例です。また、現代に及んで各カンパニーの資産公開はほとんど行われていません。
Make All Sureという言葉には、職人の心意気とギルドの厳しい品質管理の姿勢が伺われます。
ところで、そのピーターですが、彼は日本にも二度ほど駐在したことのあるイギリスの高級外交官僚でした。彼は科学のスペシャリストではありませんが、政治のスペシャリストです。彼の口上に叶う人間を見た記憶がありませんので、近年になって彼がクラークとしてこのリヴァリ・カンパニーに望まれて採用されたことは何の不思議もありません。一方的な思い込みかもしれませんが、当方としてはイギリスの歴史に名を刻む人物が友人であることは誇らしく思えます。
Peter Bateman
https://www.gov.uk/government/people/peter-bateman
クラークという謙虚な役職名といえども、実質は政治力と経営のノウハウに長けたCEOのピーターです。定年は自分で決められるそうなので、老後も安泰ですね。もちろん、クラークになるには前職が高級官僚であるなど、何かしらの際立った実績と首相に嫌われるくらいの際立った教養が求められます。
また、リヴァリ・カンパニーが存続してきた歴史を俯瞰すると、かつて、マーガレット・サッチャーが残した言葉が思い起されます。「外務省の連中と話すのが一番嫌い。だって、あの人達の話し方は、まるで玉虫色なのよ」ストレートな性格と高圧的な物言いで有名になった『鉄の女』に嫌われるとは、イギリスの外交官たちの(狡猾な?)教養の高さが知れるということでしょうか。企業だけでなく、リヴァリ・カンパニーの責任者として、彼らが雇われてきたのはサッチャー元首相を煙(けむ)に巻くほどのその実績と実力ゆえかもしれません。ともあれ、リヴァリ・カンパニーは現代でも政治力と資金力とを駆使し、a person of culture(イギリス的教養?)の象徴然として、今後もその存在を堅固に保っていくことは間違いないでしょう。
『英国人外交官アーネスト・サトウと国際避暑地の足跡を辿る旅』ツアーのお知らせ
5月12日(日)にBRITISH MADEのSTORIESに寄稿する旅行ライター&エディターの木谷朋子さんとライター&リサーチャーのマック木下さんの2名による日帰りツアーが催行予定です。
旅のテーマは、『英国人外交官アーネスト・サトウと国際避暑地の足跡を辿る旅』。
英国大使館別荘記念公園・イタリア大使館別荘記念公園を訪問し、有形文化財「明治の館」でのランチが付きます。
メインは、奥日光の「英国大使館別荘」と「イタリア大使館別荘」の見学となります。現在は、どちらも一般公開され、中禅寺湖畔の自然や国際避暑地の歴史を感じられる公園になっています。周辺は、明治中頃から昭和初期にかけて、各国大使館や日本に住む外国人たちがこぞって別荘を建てた国際避暑地でした。中でも英国大使館別荘は、明治維新に大きな影響を与えた英国人外交官アーネスト・サトウが、個人別荘として1896年に建てたもので、その後、英国大使館の別荘として長年使われてきた姿を復元しています。
■ ツアー概要
日時:2019年5月12日(日)日帰り旅行
旅行代金:おひとり様 22,700円
集合&解散場所:JR新宿駅西口センタービル前
集合時刻:午前7時20分
解散予定時刻:午後7時30分頃
食事条件:昼食付き(明治の館)
同行講師:木谷朋子さん、マック木下さん
添乗員:同行なし
最少催行人数:16名様以上(最大募集人数23名まで)
バス会社:さがみエンジニアリング(株) 中型バス
*お申込み&お問い合わせ先
株式会社 日放ツーリスト ☎03-3481-7666 まで(受付時間:月~金9:30~18:00)。
または、以下のウェブサイトからお申込み下さい。
【大人の遠足】 英国人外交官アーネストサトウと国際避暑地の足跡を辿る旅
マック木下
ロンドンを拠点にするライター。96年に在英企業の課長職を辞し、子育てのために「主夫」に転身し、イクメン生活に突入。英人妻の仕事を優先して世界各国に転住しながら明るいオタク系執筆生活。趣味は創作料理とスポーツ(プレイと観戦)。ややマニアックな歴史家でもあり「駐日英国大使館の歴史」と「ロンドン の歴史散歩」などが得意分野。主な寄稿先は「英国政府観光庁刊ブログBritain Park(筆名はブリ吉)」など英国の産品や文化の紹介誌。