世界の焦点が新型コロナウィルス感染症の動向に向いています。皆様のお役に立つかどうかは分かりませんが、今回はイギリスの疫学の歴史を当方なりに振り返ってみました。なお、「イギリス行き航空券の個人的事情 その2」は次回以降のいつか掲載させていただきます。
疫学の始祖と言われる人物はイギリス人の医学者ジョン・スノウ。コレラの第三次大流行が起きた1852年、彼はロンドンのソーホー地区ブロードストリートにあった飲料水用の井戸がコレラの感染源であることを突き止めています。
スノウの調査活動と分析が社会に認知されると、その後の疫学は看護学や統計学の確立、そして治水事業へと結びついていきます。医療専門家としての看護師を養成するために看護学を打ち立てただけなく、病院内の不衛生と死者との因果関係を数値化、且つ可視化して衛生統計学の見地を確立し、看護学と統計学の両学問で権威となった人物はフローレンス・ナイチンゲールです。また、1863年までにロンドンの下水道を整備し、コレラの発生を激減させたジョウゼフ・バザルジェットによる治水事業などに結び付いて、ロンドンやパリなどのヨーロッパの諸都市は、汚染都市から今日に至る衛生都市へと転換していったのです。
逆説的に言えば、今日に至って清潔で看護が組織化された病院や、整然としたヨーロッパの諸都市を生み出す要因になったのは、感染症や伝染病という反面教師と社会貢献に身を投げ打った人々の活躍によるものだったわけです。ちなみに、コレラの病原菌が炭疽菌であることが分かったのは1876年でした。インドで最初に発生した1817年から病原体の立証までに60年近く掛かっていますが、細菌学の分野で原因や治療法が確立される以前に、疫学は十分に社会貢献していたのですね。
船の時代に確立した検疫体制とは、船内で伝染病の疑いが出た場合、船舶は沖合での待機を課され着岸が制限されるものでした。イエス・キリストが断食した期間になぞらえて、14世紀のヴェネチアで実行された40日(quarantine)間の海上待機が検疫の語源となったとのことです。イギリス船籍の客船ダイアモンド・プリンセス号が横浜港沖で課せられた隔離対策はその倣(なら)いであると同時に、一応科学的な根拠に基づく2週間でした。なお、小見出しのquarantineにはフランス語で「40歳代」という意味もあります。20年以上前、齢40歳ごろの当方はアラフォーを意味するたわむれの表現として使っていましたが、もはやこのご時世では誤解を招きかねない禁忌の言葉になってしまいました。
周囲の偏見とは、空気感染説など他の権威的な学説、根拠の無い民間伝承、行政の無理解など前時代的な思い込みや科学的根拠に乏しいものです。現代のコロナウィルスでも、未知の部分が多いだけに、正しいのかどうかが判然としない様々な仮説や情報が立てられていて、専門家同士でも意見が異なるなど、現在(2020年3月末)はスノウの活躍した当時とほぼ同じ混乱状況であると言えないでしょうか。そして、その結果としてウイルスそのものに対する不安以上に、社会に対する情緒的な不安の方が大きくなっています。
医師スノウが原因を導くまでの過程とは、「答えの分からない問い」との闘いでもあっただろうと想像します。感染の脅威にさらされた過去の数か月間を振り返り、行く先を思うと、我々もまたその問いの渦中に置かれています。言い換えれば、自分自身の心を見つめる暗愁の機会や哲学するほどの沈思黙考の時間が個々に与えられているような気がします。家の中では距離の狭まった家族間の小さないざこざが絶えないと聞きますが、家族それぞれが個を見つめられる禅のような時間を設けられたら、今後の生き方を考えたり、価値観を見つめ直したりして、これからの長丁場に耐えられる精神が修養されるのかもしれません。状況は厳しいですが、当方も世界中の友人たちと連絡を取って励まし合っています。
感染、伝染、疫病
まず、イギリスのメディアで一般的に使われている表現はCOVID-19 infection(感染症)です。伝染病(contagion, epidemicなど)とは、病原体が個体から個体へと連鎖的に感染していく感染症の一種です。社会基盤を脅かす伝染病を疫病(plague)と言います。そして、社会集団の中で発生した病気の原因や予防などを研究する医療分野は疫学(epidemiology)として19世紀に確立しています。疫学の始祖と言われる人物はイギリス人の医学者ジョン・スノウ。コレラの第三次大流行が起きた1852年、彼はロンドンのソーホー地区ブロードストリートにあった飲料水用の井戸がコレラの感染源であることを突き止めています。
イギリスではありませんが、ウィーンにあるカールス教会です。女帝マリア・テレジアがペスト流行の鎮静を祈願して1716年から23年の歳月を掛けて建造。代表的なバロック建築で、内部も豪壮な造りです。医学の発達していなかった時代には、現代では考えられない名目で支出が認められていたことに驚くばかりです。イギリスにも同様の趣旨で建てられた教会はいくつか存在します。
スノウの調査活動と分析が社会に認知されると、その後の疫学は看護学や統計学の確立、そして治水事業へと結びついていきます。医療専門家としての看護師を養成するために看護学を打ち立てただけなく、病院内の不衛生と死者との因果関係を数値化、且つ可視化して衛生統計学の見地を確立し、看護学と統計学の両学問で権威となった人物はフローレンス・ナイチンゲールです。また、1863年までにロンドンの下水道を整備し、コレラの発生を激減させたジョウゼフ・バザルジェットによる治水事業などに結び付いて、ロンドンやパリなどのヨーロッパの諸都市は、汚染都市から今日に至る衛生都市へと転換していったのです。
逆説的に言えば、今日に至って清潔で看護が組織化された病院や、整然としたヨーロッパの諸都市を生み出す要因になったのは、感染症や伝染病という反面教師と社会貢献に身を投げ打った人々の活躍によるものだったわけです。ちなみに、コレラの病原菌が炭疽菌であることが分かったのは1876年でした。インドで最初に発生した1817年から病原体の立証までに60年近く掛かっていますが、細菌学の分野で原因や治療法が確立される以前に、疫学は十分に社会貢献していたのですね。
ロンドンはテムズ河畔に設けられたジョゥゼフ・バザルジェット(Joseph Bazalgette)の像です。既出画像ですが、ロンドンを疫病から救い、汚染都市を衛生都市として変革する大貢献を果たした人物です。王室からナイトの称号も受けています。
ポンプ場です。バザルジェットはできるだけポンプ場を使わないで自然な勾配を利用して下水道を繋げました。画像のポンプ場は下水道用ですが、その数は多くありません。
40代になっちゃったよ:I am in quarantine
ところで、歴史学者のアルフレッド・クロスビーは「生物学上の均質化が進んだことは地球の生命史上最も重要な現象のひとつに数えられる」という趣旨で“コロンブス交換”という概念を説いています。コロンブスの航海時代以来、西欧世界と新世界との間で交換されたのは文明だけでなく、病気も同様だったのですね。感染症の伝染は人類史上いまだに収束を迎えることのない風邪と同様に人類に均質化をもたらしたとも言えるわけです。また、この概念を環境問題に当てはめるとCO2(二酸化炭素)の均質化とは、地球全体の温暖化と言い換えられるのかもしれません。均質化される前に打つべき手を打つ必要があるわけで、伝染病の均質化を抑えるには検疫体制が求められます。船の時代に確立した検疫体制とは、船内で伝染病の疑いが出た場合、船舶は沖合での待機を課され着岸が制限されるものでした。イエス・キリストが断食した期間になぞらえて、14世紀のヴェネチアで実行された40日(quarantine)間の海上待機が検疫の語源となったとのことです。イギリス船籍の客船ダイアモンド・プリンセス号が横浜港沖で課せられた隔離対策はその倣(なら)いであると同時に、一応科学的な根拠に基づく2週間でした。なお、小見出しのquarantineにはフランス語で「40歳代」という意味もあります。20年以上前、齢40歳ごろの当方はアラフォーを意味するたわむれの表現として使っていましたが、もはやこのご時世では誤解を招きかねない禁忌の言葉になってしまいました。
グリニッジ界隈の「貧困マップ」です。伝染病の多くは最下層の貧しい地域から広がっています。19世紀、伝染性の性病者数が、貴族や中産階級の男性の数と、貧困地域の女性の数とがほぼ同数であるというイカさまレポートを見つけたことがあります。恥ずべき病として発症が隠蔽されることもあるので、確かな数字とは言えないでしょう。
転換点までの道のりと可視化
スノウが行動した1852年(江戸末期の嘉永五年)とは割と最近のことのように思えますが、スノウの辿った道のりは「科学的な仮説」と保守的な「周囲の偏見」との闘いでした。スノウによる仮説とは、結果の頻度や分布を統計学の手法によって、原因と結果との因果関係を導きだす記述疫学に基づいた論理です。さらに、記述疫学で立てた仮説を検証する研究、すなわち分析疫学によって分類された結果のもとで原因を突き止めます。周囲の偏見とは、空気感染説など他の権威的な学説、根拠の無い民間伝承、行政の無理解など前時代的な思い込みや科学的根拠に乏しいものです。現代のコロナウィルスでも、未知の部分が多いだけに、正しいのかどうかが判然としない様々な仮説や情報が立てられていて、専門家同士でも意見が異なるなど、現在(2020年3月末)はスノウの活躍した当時とほぼ同じ混乱状況であると言えないでしょうか。そして、その結果としてウイルスそのものに対する不安以上に、社会に対する情緒的な不安の方が大きくなっています。
ロンドンはメイフェアのサウスストリート、斜め向かい合わせに設置された2つの有名なブループラークがあります。上の画像は行政組織によって設置されたナイチンゲールの公設プラークですが、下の画像は高級娼婦キャサリン・ウォルターズを歴史上の重要人物として支持する歴史家や有志によって設置された私設プラークです。ナイチンゲールの交流範囲はヴィクトリア女王をはじめとする王室、軍隊、そして各行政機関でしたが、ウォルターズの顧客は時の首相、政治家、王室、貴族など男性諸氏でした。表社会と裏社会で、同時代に活躍したそれぞれのヒロインと言えないでしょうか。
医師スノウが原因を導くまでの過程とは、「答えの分からない問い」との闘いでもあっただろうと想像します。感染の脅威にさらされた過去の数か月間を振り返り、行く先を思うと、我々もまたその問いの渦中に置かれています。言い換えれば、自分自身の心を見つめる暗愁の機会や哲学するほどの沈思黙考の時間が個々に与えられているような気がします。家の中では距離の狭まった家族間の小さないざこざが絶えないと聞きますが、家族それぞれが個を見つめられる禅のような時間を設けられたら、今後の生き方を考えたり、価値観を見つめ直したりして、これからの長丁場に耐えられる精神が修養されるのかもしれません。状況は厳しいですが、当方も世界中の友人たちと連絡を取って励まし合っています。
マック木下
ロンドンを拠点にするライター。96年に在英企業の課長職を辞し、子育てのために「主夫」に転身し、イクメン生活に突入。英人妻の仕事を優先して世界各国に転住しながら明るいオタク系執筆生活。趣味は創作料理とスポーツ(プレイと観戦)。ややマニアックな歴史家でもあり「駐日英国大使館の歴史」と「ロンドン の歴史散歩」などが得意分野。主な寄稿先は「英国政府観光庁刊ブログBritain Park(筆名はブリ吉)」など英国の産品や文化の紹介誌。