何でもない日常の言葉
新型コロナ騒動よりもずっと以前のこと、「前向きに駐車」の標識を目にした我が娘が、「お父さん、ポジティブに駐車して!」と、突然笑い出したことがありました。そして、緊急事態宣言の状況が何週間も続いている間に、「前向きに」の案内板を目にすると、当時一緒に住んでいた娘の言葉が思い出されて、ほんのり励まされた気持ちになります。何でもない日常の言葉に過ぎないのに、心が敏感になっているのでしょうか。ただし、この話を日本語の分からない人に伝えるのは難しいです。前向き駐車をpark facing forwardと表現するわけですが、positiveと意味を重ねることはできません。イギリスの親類とのネット談話では、この雑談をするためにわざわざ英語表現を考えるなど事前準備をして臨みました。話としては完璧に伝わっている筈ですよ、と妻は言ってくれましたが、親類たちには軽く失笑されて反応はイマイチでした。
イギリスではほとんど誰もマスクをしていません。当方の息子と同居するガールフレンドは、交通規制されたバッキンガム宮殿の前で撮影。彼女はロックダウン宣言後に北東イングランドの実家に戻ることも考えましたが、息子がフラットで一人暮らしになってしまうのが気の毒という理由で、ロンドンに残ってくれました。この画像は週末で唯一の散歩の様子。平日は二人とも自宅で13時間以上の激務に追われています。
混乱する判断
また、イギリスで家を貸している友人は、5人家族の借り手(以下、店子)が、貸し手に許可を得ず無断で家の改修をするなど契約違反をしたので、法に基づいて家から強制退去させようとしたのですが、ロックダウンの最中に店子を路頭に迷わすような非人道的な行為を課してはならないという行政指導を受けたそうです。しかも、指導に従わないのならば、処罰対象となる刑事事件として取り扱う可能性もあるとまで言われたのです。契約違反、つまり私法を冒したにもかかわらず、店子は行政法に守られて、そのまま安穏と友人の貸す家に住み続けているとのこと。行政法が私法よりも優先することは平時であってもよくあることですが、新型コロナの影響が思いがけない状況を作り出してしまい、貸し手側だけが一方的に損害を被るという理不尽な事態は、有事ならではの話として受け容れるしかないのでしょうか。ちなみに、当方から友人への示唆はお金で解決すればいいことではないか、ということです。イギリスでは借り手の方が貸し手よりも法的に強い立場にありますので、退去時には賃貸借が始まった時と同じ状態にしなければ、入居時に支払った高額なデポジット(保証金)を全部貸し手に取られてしまうこともあるのです。保証金のシステムはロックダウン状態でも有効ですから、貸し手に不利に働くことはありません。ともあれ、行政側の強硬な姿勢が日本とは異なっていて、当方には興味深い出来事でした。
すでに見慣れた光景かもしれませんが、スーパーマーケットの前を等間隔で並ぶ人々。並ぶことを厭(いと)わないイギリス人ですが、「これはもはやque(列)ではない。perforation(点線)だ」とは、拙娘から送られてきた画像と報告です。
イギリスの医師たちとの雑談
以上のように、ネット飲み会や談話にはよく誘われます。しかし、日本国内のネット飲み会よりも、同じ時間帯にしらふでイギリスや他国の人たちと交信しています。イギリスとは8、9時間の時差があるので、家族、親類、そして友人とのやり取りはグリニッジ標準時(3月末~10月末まではサマータイム)の昼頃となると、彼らはまだ飲酒していません。イギリスの彼らとネット電話で話す機会が増えて、さまざまな日英差を感じる毎日の中で、将来の我々の生活は、これからどこに向かうのかと問いかけられているような気がしています。ひとつ、まじめな雑談を紹介します。医療従事者の子供たちの保育が拒否された事件、そして病院や介護施設から感染者が出た際に起きる、感染者に対するバッシングなど日本のニュースは、イギリスのメディアでも大きく報道されています。これを受けて、GP(General Practitioner:総合診療医)をしているイギリス人の友人数名が、あくまで雑談としてコメントしてくれました。
「感染のリスクが高くなるからという理由で、拒否やネット攻撃が起こるなど、イギリスではあり得ないことなので驚いた。確かに、直接に新型コロナと闘っている医療従事者が感染する可能性は普通に暮らしている人より高いだろう。しかし、それだけに、退勤時には厳重なチェックを受けてから勤め先の病院をやっと出られるなど、科学的に万全の態勢で職務に臨んでいる。保育者も医療従事者もどちらも互いのプロフェッショナルなスキルを尊重し合い、信頼すべきだろう」
医療従事者たちへの感謝を貼り絵のステンドグラスで示すお宅も多いのだとか。虹はどこの国でも希望とか、明るい見通しの象徴のようです。
社会全体で医療従事者を支えなければ、ゆくゆくは一般人の我々自身が困る可能性が生じるだけではありませんし、感染のリスクは誰でも平等に共有せざるを得ないので、非感染者が感染者を批判すること自体が矛盾しているという意見もありました。持論ですが、無意識な差別行為が生じやすい社会構造には何かが欠落しています。子供とその家族、そして自分たちを守りたいという気持ちは不可欠ですが、社会全体に対する正しい洞察力と、感染者に対する優しい想像力も求められているのではないかなという気がします。
友人医師たちの話からは、医学、疫学、統計学など科学的な根拠で判断を優先すると同時に、利他と利己との両方の利益バランスをわきまえた人道主義的な価値観をイギリス人たちが行動規範にしていることが感じられます。そして、この状況の違いを話題にしているうちに、故ダイアナ妃がエイズ患者を抱きしめた映像が目に浮かんできました。もちろん、彼女は正しい科学的知識を持ち、社会の要請に応じた行動を取ったわけです。
社会生活が混乱する一方で、自然界では着実に季節が進んでいます。自然を優先する環境倫理によれば、地震や津波や気候の劇的な変化のように、伝染病の蔓延も自然現象のひとつであって、自然界の当然の営みに過ぎないと考える人もいるわけです。
新しいプロトコル(お作法)の萌芽期?
ところで、週にいくつか参加するネットでの電話会議で、新たなプロトコル(作法)が必要なのかな、という疑問が湧く出来事がありました。あるネット会議で20代のイギリス人女性が寝ぼけ眼で画面に現れました。アジェンダに従って、個々が順番に発言をしている間に気づいたのは、彼女はパジャマ姿のままであること、すっぴんであること、そしてときどき妙な音がしてくることでした。彼女のPCは顔認証してくれたのでしょうから、すっぴんは構わないにしても、よれよれな部屋着のリラックスした姿を見せられては、緊張感を伴う会議に臨んでいる者としては、その温度差が気になって話しづらく感じられます。そして、妙な音とは、トーストを食べる咀嚼音でした。カリッと嚙みちぎり、サクサクと咀嚼しています。やはり、イギリス人のトーストはクリスピーなのです。画面にはときどき歯形のついたトーストの切れ端と、彼女の口の動きが見えます。その状況がしばらく続くと、突如「会議に集中できない」と参加者からのサブタイトル・チャットが始まりました。やがて、たまりかねた議長役の人物が彼女を諭(さと)しました。「会議に出ている我々は皆それなりに準備していますが、貴女はまだ準備中のようですね。今回はチーム内レベルですが、次回はグローバルレベルの会議です。貴女は今日と同じ姿でトーストをかじりながら参加するつもりですか?」と言うと、彼女は無言でスクリーンからログオフしてしまいました。聞くところによると、博士号を2つ持つ彼女はネット会議で、参加者の気勢をそぐような意外なことを何度かやらかしているそうです。いわゆるアカデミックレベルは高いけど、常識レベルのリテラシーを重んじない人物です。異空間と異空間とをネットでつなぐ会議では、文字通り異なる空間どうしの空気が読めないのかもしれません。と言うと、自粛警察っぽい?
ネット会議でのプロトコルなど、常識よりも低いレベルのお作法を定める必要があるのかもしれない、というのはこれもまた新たなる変化の始まりでしょうか? ともあれ、日英のコロナ雑談はここまで。日英の違いや、我々の社会が変化していくきざしを共感して下さると幸いです。
北東イングランドに暮らす拙娘は毎日犬と散歩しています。ロックダウン以来、散歩中に他の犬や人と出くわすことはほとんどなくなったそうです。
マック木下
ロンドンを拠点にするライター。96年に在英企業の課長職を辞し、子育てのために「主夫」に転身し、イクメン生活に突入。英人妻の仕事を優先して世界各国に転住しながら明るいオタク系執筆生活。趣味は創作料理とスポーツ(プレイと観戦)。ややマニアックな歴史家でもあり「駐日英国大使館の歴史」と「ロンドン の歴史散歩」などが得意分野。主な寄稿先は「英国政府観光庁刊ブログBritain Park(筆名はブリ吉)」など英国の産品や文化の紹介誌。