美しき飛行機雲
イギリスの空は晴れていれば、雲と光の組み合わせによる個性的な絶景を魅せてくれます。その雲のひとつが人工的な水蒸気のわだち、つまりコントレイル(飛行機雲)です。実際には触れられないコントレイルですが、当方の子らは手でつかむような距離で数々のコントレイルの間を潜り抜けて、その爽快感に浸るという羨ましいような、高所恐怖症には脚がすくむような体験を語ってくれました。パブリックスクール時代、王室学生連隊(Royal Cadet Forces)の空軍に所属していた彼らは、たまにグライダーやプロペラ機に乗せてもらっていたのですね。あたかも、ホグワーツの(空想)球技クゥディッチのゲーム中に空を駆けめぐるハリー・ポッターの気分が想像できたとのことです。しかし、コックピットの助手席では、ヘルメットと防寒具を身に着けていても、身を切られるように寒くて震えの止まらぬ過酷なフライトで、地上に降りた時は爽快感よりも疲労感の方が勝ったそうです。亜欧連絡飛行
さて、航空理論上は可能であったとしても、技術的にはまだギリギリの時代に、寒さと疲労と睡魔に耐える過酷なフライトを強いられた人たちがいます。1937年4月9日、戦前の東京、立川空港からロンドン・クロイドン空港までの約1万5千キロを不眠不休で94時間という高速で飛んできた、勇敢かつ、鉄の意志を貫いた日本人飛行士の2名、塚越賢爾(けんじ)と飯沼正明という英雄を見つけました。この事実を当方が知ったのは2005年ごろのこと。物見遊山でクロイドン空港跡を訪れました。第二次世界大戦の戦前戦中、ロンドン空港と言えば、クロイドン空港を意味しましたが、飛行機がジェット化し、広い空港が必要になった1959年には、クロイドン空港はロンドン空港としての役割をヒースロー空港に譲ることになったのです。その後は、レトロなターミナルビル内を改装した航空博物館とエアロドロームホテルが空港跡地に残され、今ではローカルな観光地となっています。当方が訪れた時は、月に数回行われていたご高齢の方々によるボランティアガイドで、ターミナルビル内を案内してもらいました。そして、当時90歳のベテラン(退役軍人)から思いがけない言葉を聞いたのでした。
クロイドン空港跡に残るエアポートハウス。今でも、ホテルとして利用されています。ビル内は古き時代の航空カウンター、税関、イミグレーションなどの標識が残されていますが、撮影禁止。内部画像はこちらのリンクからご覧ください。
「プロペラ機の時代、第二次世界大戦前の1937年に二人の日本人が『神風』に乗って東京からやって来たんだよ。20歳だった私も神風号と彼らを見て、とても興奮したよ。私の人生で最初に意識した日本とは、凄い技術を持った国だった。当時としては、とんでもないスピード(最高速度300㌔/h)で、東京からいくつかの経由地を辿って、たった94時間で、このロンドン・クロイドン空港に無事に到着してイギリス人から大歓迎を受けたんだ。イギリスや日本だけではなく、ロンドン-東京間のフライトを100時間以内で達成できれば懸賞金を出すと宣伝していたフランスも含めて世界中の話題になったものさ」
この「神風」(英名Divine Wind)という名称は太平洋戦争の神風特攻隊とは無関係で、この亜欧州連絡飛行プロジェクトの際に、朝日新聞社が公募した中から選ばれた飛行機の愛称とのことでした。三菱重工によって開発された機材名は九七式司令部偵察機で、試作名称の「キ15」として航空マニアに知られています。同機は、立川飛行場を出発。台北・ハノイ・ビエンチャン・カルカッタ・カラチ・バスラ・バグダッド・アテネ・ローマ・パリを中継して、ロンドン・クロイドン空港に降り立った二名の飛行士の出で立ちは、航空服ではなく紳士然としたスーツ姿。オヤジ駄洒落とお叱りを受けることを恐れずに言うと、最後の経由地パリでパリッと着替えたのでしょう。
空港滑走路も老朽化が避けられません。アスファルトは50㎝以上の厚さになるそうです。
なぜロンドンまで飛んできたのか
この事実を知り、ご老人の説明と簡単なリーフレットを元に調べてみたのですが、当時のロンドンでは日本語でも英語でも大した資料が出て来なかったのです。しかし、一昨年の夏(2019年)、このクロイドン空港跡に接する2キロに渡って完全な直線の道(Purley Way:戦後直後までジェット機用の滑走路にする予定だった片側3車線)を車で通過した際に、かつて滑走路だった広大な敷地の一部が、アメリカ資本の会員制大型量販店の店舗として占有されている状況を見て、「こうして歴史は可視化できなくなり、埋もれていくのだろうか」と悲しい気持ちになりました。 旧クロイドン空港を縦貫するPurley Way。この部分は片側2車線になっていますが、左側の幅10mの植え込みの向こう側にも2,3車線の道があります。つまり、ジェット機用空港の滑走路も準備もされていたクロイドン空港の跡です。右側に見えるアメリカ系量販店の位置には、かつてプロペラ機用の滑走路が残っていました。
自分自身の記憶までが埋もれてしまう前に、日本の国会図書館で「亜欧連絡飛行」で検索すると、この神風号、飯沼操縦士、そして塚越機関士について当時から現代までの雑誌や書籍などの資料がたくさん出てきました。当時、この飛行が注目された理由は、世界の航空競争という社会的状況が背景にありました。アメリカ人飛行家のリンドバーグが1927年に大西洋横断、1931年に北太平洋横断に成功したものの、その快挙に続こうとした飛行士のほとんどが、この種の長時間フライトで(主に居眠り操縦が原因で)命を落とす大冒険であった状況を考慮すると、1万5千キロの経由ルートを辿って、燃料補給、整備、休息(実際はほとんど不眠不休)などの時間を含め94時間で飛んだことが人類史上でも大きな偉業のひとつであったことが伺えられます。また、当時の最先端の技術であったことと、その技術を操る人々が、現代で言えば宇宙飛行士、あるいはそれ以上の英雄として、日英だけでなく世界中の人々の目に映ったのです。
右から2番目の人物が塚越機関士。撮影場所と状況が特定できませんが、他の画像と比べても彼が塚越機関士であることは間違いありません。飯沼操縦士と塚越機関士の画像は残念ながら入手不可。こちらのリンクからご覧ください。
神風号の任務はジョージ6世の戴冠式の祝辞を運ぶことでした。しかし、当時、駐英日本大使を務めていた吉田茂(戦後の総理大臣)の手記には「戴冠の公式行事が重なる折柄、この種のフライト計画をひとつ認めると、他国からも多数申請されて混雑する恐れがあると当局(王室軍と英国外務省)から体よく断わられた」という主旨の記録が残っています。その後、吉田大使は外交ルート以外の方法で申請を勝ち取ったとのことですが、日本側に残された公文書からは、その背景は見えて来ませんでした。吉田大使はどんな寝技を使ったのでしょうか。
塚越機関士
ところで、この塚越賢爾機関士とイギリスとの関係にも意外な事実があります。まず、塚越賢爾がイギリスに来たのは、これが初めてのことではありませんでした。そして、彼は日英のハーフ(ミックス、混血)だったのです。弁護士だった父上の塚原金次郎はイギリス留学中に知り合ったエミリ・ボードウィンという看護婦と結ばれると家族4人で、日本で生活していたということです。ところが、幼い賢爾(けんじ)とその妹フローレンスを連れて、エミリは突如イギリスに帰国してしまいます。その後、賢爾とフローレンスは孤児院に預けられ、それ以後エミリは消息を絶ってしまいます。金次郎はイギリスに渡り、孤児院で引き取った我が子らを日本で育てました。日英間の航海がひと月以上掛かる時代ですから、この騒動が落ち着くまでに何か月もの時間が掛かってしまい、賢爾は同年齢の仲間よりも一学年下の学齢になってしまったとのことです。エミリが突然故国に帰っってしまった原因は定かにされていません。また、賢爾は見るからに混血の顔立ちでしたが、その出生について自ら語ることはなかったそうです。賢爾の息子の一人はNHKでアナウンサーとして活躍していました。2005年に出版された「神風」(三樹書房)の序章に寄せた断章では、凱旋後の賢爾の様子とご自身の経験が描写されています。
その後、1945年の敗戦直前に、塚越機関士は空路上で連絡が途絶えて戦死扱い。塚越はお子さんたちの成人の姿を見ずに生涯を終えました。飯沼操縦士も1941年に事故死しています。最新機「神風」に乗った彼らでも、天祐とも言える神の風をいつでも受けられる強運を持ち合わせているわけではなかったのです。
欧州の地方空港はどこでも身近に感じられます。オブザーバトリー・エリアが整っている空港では日がな飛行機の発着を眺めている航空オタクもたくさん。
20世紀の初めまでに、我々の祖先はコントレイルに近づけるまでに、科学技術は向上しました。しかし、航空機を含め多くの科学技術が平和だけでなく、戦争にも広く利用される時代はまだ続いているのですね。我々の生きている間に、空に浮かぶコントレイルが誰の目にも平和の象徴として映る日がくることを願います。 また、この亜欧連絡飛行のミッションがジョージ6世戴冠の祝辞を運ぶことだったことに関連して、これからの日英関係について、当方はひとつの予見を立てています。「歴代の天皇陛下が授与されてきたように、今上天皇(徳仁天皇)にもイギリス王室からガーター勲章が贈られる日も、そう遠くないでしょうね」 と、昨年11月のリメンブランス・デイ(戦没者追悼記念日)に保土ヶ谷連邦軍墓地で出会った日本外務省のキャリア官僚の方々にお伝えしました。その日、快晴の空を仰ぐと、イギリスの青空を思い出させるような長いコントレイルが複数浮かんでいました。
画像の空は雲が見えますが、今回の記事を書くきっかけとなったのは、この式典のために発進した航空自衛隊機の辿った飛行機雲を見たからでした。イギリス連邦による戦没者追悼記念式典は毎年11月11日の最寄りの週末に保土ヶ谷イギリス連邦墓地で開催されます。11月になると、日本でも飛行機雲はイギリスの夏の飛行機雲と同じくらい長く、はっきりしてきます。また、この日は東京に短期赴任していたイギリス人職員のお爺さんがこの墓地に眠っているというので、その墓石を探して見つけ出しました。22歳の青年が直面した死と絶望感はあまりにも痛ましく、その墓前で尊き犠牲への感謝と将来の平和を祈りました。
マック木下
ロンドンを拠点にするライター。96年に在英企業の課長職を辞し、子育てのために「主夫」に転身し、イクメン生活に突入。英人妻の仕事を優先して世界各国に転住しながら明るいオタク系執筆生活。趣味は創作料理とスポーツ(プレイと観戦)。ややマニアックな歴史家でもあり「駐日英国大使館の歴史」と「ロンドン の歴史散歩」などが得意分野。主な寄稿先は「英国政府観光庁刊ブログBritain Park(筆名はブリ吉)」など英国の産品や文化の紹介誌。