都内の家電量販店に行くと、18世紀ごろを舞台にしたヨーロッパ映画が20台のテレビに同時に映っていました。「あら、フランス映画ね」と、一瞥した家人(英人)が言うので、「なんですぐにフランスと判ったの?」と質問すると、「コーチマン(御者)が馬にまたがっているから」と答えました。しばらく、その映画(BS放送かな?)を無音声で眺めていると、1960年以前に制作された「ジャン・バルジャン物語」(レ・ミゼラブル)であることが判りました。そして、家人は付け加えました。「イギリスの馬車は御者が馬車の真ん中に座るでしょ」とのこと。…そんなん、知らんわ。
一方で、フランスの場合、左側通行を勧めた教皇に反目していた皇帝ナポレオンのひと言という説もあるようですが、現実的な理由は、馬車をけん引する2頭の馬のうち、御者は左側の馬にまたがっていたから。つまり、対向する馬車との衝突を避けるためにコントロールする馬が左側になるので、右側に寄って通行する決まりが出来たということです。つまり、右側通行も左側通行と同様に、双方向通行の安全確保を理由に成り立ったという面で真実味のある説です。そして、大航海時代に世界各地に拡大した英仏両国の法制やシステムのうちのひとつとして、それぞれの国が支配・植民した国々で右側通行と左側通行との分化が生じ、現在まで維持され続けていると考えられます。
首都防衛の点で、海からテムズ河を遡ってくるバイキングの攻撃に対して、木造の橋は無力でした。現在の王室の祖先ノルマンディがイングランドにやってくる前から、先住民のケルト人やアングロ・サクソンたちはバイキングの襲来に悩まされていたのです。テムズ河はウインブルドン地域など、かなりの内陸地まで海流の影響が及ぶ干潮河川(潮の満ち引きの影響を受ける河川)ですから、航海術に長けたバイキングたちは満ち潮や大潮の勢いに乗った大船団でイングランドに侵入し、テムズ河流域の主だった街で略奪と破壊を行った後、引き潮のころ合いになるとその流れに乗って北海方面へと引き上げていたのです。
ある時、バイキングたちは引き上げる際に、木造のロンドン・ブリッジの橋脚に自分たちの乗っている船をロープで括(くく)り付けて、船団で一斉にテムズ河を下るや否や、全長250mを超えたロンドン・ブリッジは恐ろしい大音響とともに一挙に崩壊したそうです。話半分として聞いてみても、迫力がありますよね。そして、この伝聞が童謡「ロンドン橋が落ちた」につながるのです。流通の生命線である橋を破壊するバイキングの目的は、次の攻撃までに、シティ・オブ・ロンドンが軍備を整える猶予を与えないことでした。数々の戦争によって、我々の祖先は軍事的なインフラを発展させましたが、特に時間の掛かる土木工事で作られたものを破壊されると、誰しも対戦意欲を失うものです。
また、テムズ河の潮流の強さは、今日でも、いくつかの設備や施設として可視化されています。ノーベル賞作家カズオ・イシグロのお父上(海洋学者)が建設に深く関わったテムズバリアは、北海からの高波や津波を避けるために建造されたもので、防災設備のひとつです。
繁栄の背景には流通がありますから、橋の上は数多の荷馬車などでごった返します。やがて、その交通整理が求められ、ロンドン議会がルールを決めます。シティの対岸にあるサザーク地域に向かうには橋の東側を、そして、サザークからシティに向かうには橋の西側を通ることを規則としたのは1772年のこと。すなわち、橋の左側に寄って通行することを課したものであり、イギリスの左側通行の起源のひとつとされているのです。この時代をモチーフにした映画や絵画を観ると、御者は右側席か席の真ん中に座っています。そして、右側の馬を制御するための鞭は右手ですから、先に述べた御者の利き腕が右腕なので、左側に寄って通行したという説にリンクします。
さて、「御者の位置説」も「ロンドン・ブリッジの石橋説」も、どちらもありそうな左側通行の起源説です。御者が馬車の右側に座った理由、ロンドン・ブリッジの左端を交通した理由、ロンドン・ブリッジは何故落ちたのかなどなど、それぞれは単なる知識に過ぎませんが、いくつかの事実がこうしてつながると、楽しい妄想がストーリーとなって、さらに実証化されて歴史として残ることになります。もちろん、新しい事実やストーリーで歴史の認識は変化します。 最近、ロンドン検定を作らないかと、ある出版社から持ち掛けられましたが、たぶん、知識だけを点数化して競い合う検定試験は、ロンドンをつまらなくしてしまうと考えて断ってしまいました。知識を積み重ねて、その量を競うだけなら、PCに任せれば良いでしょう。知識はヒトによって運用されてこそ、楽しいストーリーになるのではないでしょうか。次回もテムズ河にまつわる話かも‥。
左側通行は馬車の御者説
調べてみると、確かに、イギリスの馬車は御者台が中央にあります。そして、御者の大半は右利きです。2頭の馬にコーチを引かせるには、右利きの御者が、鞭で馬の右側をコントロールして、馬と馬車の右側の安全を確保します。つまり、反対方向から来る馬車とすれ違う場合には、衝突を避けるために、道路の左側に寄って通行することになったわけです。やがて左側通行として法制化され、後の自動車の運用にも適用され、コモンウェルス(植民地からイギリス連邦に至った国々)に広まったという文献(「舗装と下水道の文化」論創社刊、岡並木著)を見つけました。一方で、フランスの場合、左側通行を勧めた教皇に反目していた皇帝ナポレオンのひと言という説もあるようですが、現実的な理由は、馬車をけん引する2頭の馬のうち、御者は左側の馬にまたがっていたから。つまり、対向する馬車との衝突を避けるためにコントロールする馬が左側になるので、右側に寄って通行する決まりが出来たということです。つまり、右側通行も左側通行と同様に、双方向通行の安全確保を理由に成り立ったという面で真実味のある説です。そして、大航海時代に世界各地に拡大した英仏両国の法制やシステムのうちのひとつとして、それぞれの国が支配・植民した国々で右側通行と左側通行との分化が生じ、現在まで維持され続けていると考えられます。
左側通行はロンドン・ブリッジから…説
ところが、別の文献(「London`s Thames by Gavin Weightman)で、イギリスの左側通行に関わる異なる説も見つけちゃいました。左側通行の起こりはロンドン・ブリッジにあるとのこと。 話が脱線するように感じられるかもしれませんが、ちょいと我慢して読み進めて下さい。童謡で「ロンドン橋が落ちた」と歌われた理由は、木製の橋は自然災害で流されたり、都市国家ロンドンを攻撃するために破壊されたり、防御するためにあえて焼き落としたりして、架け替えられる歴史を長く経てきたからであることはご存じのとおりですが、もうひとつ「そうかもな」と思わされる左側通行の石橋説です。 現在のロンドン・ブリッジです。タワー・ブリッジが遠くに見える理由は撮影に使ったレンズの違い。この地点からタワー・ブリッジまではせいぜい1キロの距離。18世紀まで存在した、防衛目的で造られた都市城壁型(封鎖型?)のロンドン・ブリッジの模型をご覧になりたい方は、以下のURLにアクセスしてみてください。「ロンドン・ブリッジ・ミュージアム」
首都防衛の点で、海からテムズ河を遡ってくるバイキングの攻撃に対して、木造の橋は無力でした。現在の王室の祖先ノルマンディがイングランドにやってくる前から、先住民のケルト人やアングロ・サクソンたちはバイキングの襲来に悩まされていたのです。テムズ河はウインブルドン地域など、かなりの内陸地まで海流の影響が及ぶ干潮河川(潮の満ち引きの影響を受ける河川)ですから、航海術に長けたバイキングたちは満ち潮や大潮の勢いに乗った大船団でイングランドに侵入し、テムズ河流域の主だった街で略奪と破壊を行った後、引き潮のころ合いになるとその流れに乗って北海方面へと引き上げていたのです。
ある時、バイキングたちは引き上げる際に、木造のロンドン・ブリッジの橋脚に自分たちの乗っている船をロープで括(くく)り付けて、船団で一斉にテムズ河を下るや否や、全長250mを超えたロンドン・ブリッジは恐ろしい大音響とともに一挙に崩壊したそうです。話半分として聞いてみても、迫力がありますよね。そして、この伝聞が童謡「ロンドン橋が落ちた」につながるのです。流通の生命線である橋を破壊するバイキングの目的は、次の攻撃までに、シティ・オブ・ロンドンが軍備を整える猶予を与えないことでした。数々の戦争によって、我々の祖先は軍事的なインフラを発展させましたが、特に時間の掛かる土木工事で作られたものを破壊されると、誰しも対戦意欲を失うものです。
歩行者専用のミレニアム橋。テートモダンからセント・ポール大聖堂まで一直線に結びます。80年代にシティ勤務して頃からは考えられないほど、華やかで安全でオシャレなインフラが増えました。逆にバックストリート(裏道)が少なくなって、シャーロック・ホルムズやディケンズの著作に描かれたロンドンの個性とも言うべき、暗く湿った雰囲気が消えつつ感じられます。
また、テムズ河の潮流の強さは、今日でも、いくつかの設備や施設として可視化されています。ノーベル賞作家カズオ・イシグロのお父上(海洋学者)が建設に深く関わったテムズバリアは、北海からの高波や津波を避けるために建造されたもので、防災設備のひとつです。
テムズ・バリアはロンドンを高潮による洪水から守るために、精度の高い構造計算のもとに築かれましたが、昨今の温暖化による潮位の上昇のためにあと何年持つだろうかという懸念のもと、新たなプロジェクトも推進されています。この堤防は自然災害に対するバリアです。一方で、敵からの攻撃に対するバリア、つまり18世紀まで存在した都市封鎖型のロンドン・ブリッジの基礎部分を眺めると、防衛設備と災害防止設備とはよく似た構造をしているものだなと思いました。
どちらの説も想像力を駆り立てる
中世では水運に影響しない構造のダムを造る技術などありませんでしたが、まだ大型船の時代ではなかった背景と、流通や経済よりも最前線の防御策を優先してロンドン・ブリッジを石造りにしました。イタリアのヴェッキオ橋をモチーフにしたかどうかはわかりませんが、13世紀には石造りのロンドン・ブリッジが完成しています。当時のイングランド王とギルド国家のシティ・オブ・ロンドンは、建設に掛かった費用の補填と維持費を捻出するために橋の通行料の他に居住空間と多くの店舗展開を許可し、税収を得るようにしました。ロンドン・ブリッジの上は現代で言うところの豪奢なショッピングモール付きのハイストリート状態になり、ロンドン・ブリッジは落ちるどころか、何百年にも渡って盤石なインフラとして防衛面、流通面、そして防災面で機能を果たし大航海時代以前の近世までロンドンだけでなく、イギリス全体の経済発展に貢献します。 フリート・ストリートの教会に掲げられていた絵画。テムズ河の中に書かれたFluviusとはラテン語で川のこと。SouthworkがSouth Warkeと綴られていて時代を感じます。右がロンドン・ブリッジですが、この絵の中央にある尖塔付きの聖ポール大聖堂の存在を考慮すると、1666年のロンドン大火以前に描かれたことが分かります。ロンドン・ブリッジの橋げたによって流れが緩慢になったテムズ河は、17,18世紀の小氷期にロンドン・ブリッジの上流側(ブリッジの左側)が凍結し、アイススケートリンクとして利用されることもありました。
繁栄の背景には流通がありますから、橋の上は数多の荷馬車などでごった返します。やがて、その交通整理が求められ、ロンドン議会がルールを決めます。シティの対岸にあるサザーク地域に向かうには橋の東側を、そして、サザークからシティに向かうには橋の西側を通ることを規則としたのは1772年のこと。すなわち、橋の左側に寄って通行することを課したものであり、イギリスの左側通行の起源のひとつとされているのです。この時代をモチーフにした映画や絵画を観ると、御者は右側席か席の真ん中に座っています。そして、右側の馬を制御するための鞭は右手ですから、先に述べた御者の利き腕が右腕なので、左側に寄って通行したという説にリンクします。
手前はサザーク(Southwark)橋です。ミレニアム・ブリッジから東向きに撮影したもの。はるか2kmほど先に見えるタワー・ブリッジとサザーク橋との間にはブリティッシュレイルの鉄橋とロンドン・ブリッジがあります。数年前に読んだGuardian紙の記事でしたが、1970年代に、19世紀のロンドン・ブリッジを買収し、解体してアリゾナまで持っていたアメリカ人たちの話が掲載されていました。彼らは一般の外国人のように、タワー・ブリッジとロンドン・ブリッジとの区別がついてなかったのではないだろうか、という内容でした。
さて、「御者の位置説」も「ロンドン・ブリッジの石橋説」も、どちらもありそうな左側通行の起源説です。御者が馬車の右側に座った理由、ロンドン・ブリッジの左端を交通した理由、ロンドン・ブリッジは何故落ちたのかなどなど、それぞれは単なる知識に過ぎませんが、いくつかの事実がこうしてつながると、楽しい妄想がストーリーとなって、さらに実証化されて歴史として残ることになります。もちろん、新しい事実やストーリーで歴史の認識は変化します。 最近、ロンドン検定を作らないかと、ある出版社から持ち掛けられましたが、たぶん、知識だけを点数化して競い合う検定試験は、ロンドンをつまらなくしてしまうと考えて断ってしまいました。知識を積み重ねて、その量を競うだけなら、PCに任せれば良いでしょう。知識はヒトによって運用されてこそ、楽しいストーリーになるのではないでしょうか。次回もテムズ河にまつわる話かも‥。
ロンドンの地図を真上から見ると、ウエストミンスター・ブリッジの西側はイギリスの国会議事堂、そしてタワー・ブリッジの東側面のロンドンウォールに沿って建つのが王宮であったロンドン塔。つまり、その東西の建物の内側にあるロンドンウォールで囲まれたかまぼこ型の部分が、本来のロンドンの中心部です。現王室の祖先が都市国家シティ・オブ・ロンドンを攻めきれずに、融和政策を取ったために、国会議事堂と王宮(ロンドン塔)、それぞれがシティの外側に設置されたのです。また、ローマ時代に、ロンドンと各地方都市とを結ぶ幹線道路ローマ街道が作られましたが、ロンドンと南イングランドを結ぶために造られた橋は唯一の橋はロンドン・ブリッジだけでした。18世紀になってようやく造られた2つ目の橋がウエストミンスター・ブリッジです。日本ではお江戸日本橋が五街道の拠点ですが、イギリスではロンドン・ブリッジはローマ街道の拠点である一方で、公道のカーレースや自転車レースなどでは、ウエストミンスタ―・ブリッジがゴールとして認知されていることが多いような気がします。実際のゴールとして使われてきたのは、すぐ近くのトラファルガー・スクウェアです。
マック木下
ロンドンを拠点にするライター。96年に在英企業の課長職を辞し、子育てのために「主夫」に転身し、イクメン生活に突入。英人妻の仕事を優先して世界各国に転住しながら明るいオタク系執筆生活。趣味は創作料理とスポーツ(プレイと観戦)。ややマニアックな歴史家でもあり「駐日英国大使館の歴史」と「ロンドン の歴史散歩」などが得意分野。主な寄稿先は「英国政府観光庁刊ブログBritain Park(筆名はブリ吉)」など英国の産品や文化の紹介誌。