コトバの病気とは、語学を学んでいると、誰でも一度は掛かってしまう伝染性の病気かもしれません。しかし、ワクチンが開発されることはありません。伝染するのは少しマジメな語学学習者だけであって、実害はほとんどないからでしょう。とてもまじめな学習者は、熱心な追究や研究に向かい、その話しぶりもマニアックになり、専門的な領域に突き進んでいきます。当方の場合、英語以外にも学んだ言語でもある程度学ぶとすぐに満足してしまうので、一時的なハシカのようにコトバの病気にかかるだけで済んでいます。せっかく見つけた語学の専門書は索引を使うだけの辞書替わりとなって、やがて学習したことさえ忘れてしまい、病的なコトバの追究を終わりにします。
その一方で、日ごろから、日本人の使う外来語を聞いてると、日本人の外国語学習やスキルは、将来どうなるのかなあと少し心配になります。たとえば、ヘボン式文字や明治学院大学の創立者となったHepburn 「ヘボン」の発音はどうあるべきか?とか、 本来は「報復」「復讐」などを意味するrevenge「リベンジ」、 「緊張」「圧力」などを意味するtension 「テンション」など本来の意味とは全く使われ方が異なる単語の使い方、 そして、当方がひとつの記事にしてしまったほど日本人の使い方が混乱しているclaim「クレーム」などの将来性を案じています。クレームについては過去記事を振り返って頂けたら幸いです。
ヘボンの場合、Hepburnという綴りに対してもう一つの日本語表記があります。それは、オードリー・ヘプバーンの姓です。国際音声記号であれば、[hépbɚːn]ですので、音に合わせて無理くりに和英混合スペルをすれば、「へpバ(ボ)ーン」と表せます。日本語では母音を伴わない子音は、発音されないことが多いので、pが無視されて、「ヘボン」とか「ヘッバーン」と聞こえてしまうんでしょうかねえ。[ɚ]という音は、日本人には「あ」にも「お」にも聞こえる英母音です。
リベンジの場合、20年ほど前のプロ野球の新人ピッチャーが、メディアとのインタビューの際に、他チームのピッチャーとの投げ合いで負けた後に「リターンマッチをして勝つ」という意味で「〇〇投手にリベンジする」という表現をしていました。プロになったばかりのころ、彼は「自信が確信に変わった」という発言をしてから、当時では、まだ珍しかった口頭表現力の豊かな野球選手として認知された人物です。ただし、リベンジには、「やられたら、やり返す」という個人的な野心や復讐心が込められているので、使い方としては限られてくるような気がします。英語のネイティブ話者との会話で使うと、おそらく「物騒な人だな」とか、「ユニークな表現をする人」と思われるでしょう。
I will revenge him at next match. 「次の試合で仇を討つ」
I want to win/beat him at next match. 「次の試合で彼に勝ちたい」
笑いやウケを狙いたいのならともかく、普通にコミュニケーションを取りたいなら、後者の表現をお勧めします。もちろん、当方なら前者よりももっと過激な表現で相手を喜ばせますが、さらにこなれた表現を重ねて会話を続けなければ、面白みは伝わらないでしょうから、生兵法は怪我の元です。って、上から目線のつもりではありませんので、ご容赦を。
最近は、受信料を取る放送局のアナウンサーでも「テンション上がりますよね」と使っているので、もはや市民権を得つつあるヨコモジなのかもしれません。 しかし、英語として使う場合には、英単語として意味を記憶するだけではなく、語法や使い方(場面による使い分けなど)も知っておかないと、日本や日本語を知らない英語話者には通じない誤用表現のひとつになってしまうことは、今のところ間違いありませんので、ご注意を。特に外国語のコトバやその使い方は、本来の意味を知ったうえで、ひとつひとつ丁寧に扱っていくしかないと常々思うところです。
・・・などと、考える一方で、通じりゃいいじゃん。とも思います。つまり、「考えるな。感じろ」というブルース・リーの名言はコトバの世界でも通用することだと思います。間違えていたって、通じりゃいいんです。音声、表現、文法が全部間違っていたってコミュニケーション能力が高い人は相手に理解させます。話すリズムが良かったり、話に勢いや情熱がこもっていたりすると、相手に伝わりやすいことは間違いないと思います。ピジョン言語から生じたクレオール言語のように体系化されていく言語現象の例もありますから、言葉の発展は実に自由自在だと思います。
英語圏に赴任する日本人駐在員の多くが、最初の1年間に、現地採用の英語話者から共通して言われるのは、「あなたが、何を伝えようとしているのか、さっぱり分からない」とのことです。その原因は2つあると考えられます。そのひとつは、今述べたグローバルエラー。語法(語の使い方、当てはめるべき文型)が間違っているのです。40年以上前のことですが、恥ずかしながら、当方にも同じ経験があります。
もうひとつは、コンテクスト(言語外の情報)の違いです。 これだけ言えば、日本人には通じるし、判ってもらえるのに、イギリス人にはいちいち具体的に言わなくてはならない。と、いら立ちを覚えたことはないでしょうか? 日本文化のハイ・コンテクストな(空気を読む)コミュニケーションに慣れてしまっているために、日本人に対して話すのと同じような話し方をイギリス人にしてしまうと、イギリス人にはさっぱり意味が伝わりません。
言い換えれば、日本人同士で共有出来ている常識が、英語文化圏に我々が侵入した途端に常識ではなくなるので、我々の常識の部分を説明する手間が生じるのです。 しかし、その説明を怠ったり、認識出来ないままだったりでは、英文化圏の人からは通じない奴(あるいは、グローバルエラーをもたらす、面倒くさい人物)と判断されてしまいます。たとえ、TOEICやら検定など英語のテストでどんなに結果が良くても、ボキャブラリが豊富でも、文化の違いを認識できていなければ、コミュニケーションが成り立たないので、英語文化圏の人々からの信頼を得られないことになりかねないのです。
ところで、コミュケーション能力の高い人はそれぞれの言語を俯瞰していると思います。すなわち、自国語と今話している言語との構造(文型・語法)と表現(場面・文化)、それぞれの違いを認識して、その違いを上手に使いこなしています。 たとえば、「水が欲しい」という主観的な表現は“want water”とか“I want water”という表現にできます。 そして、“he wants water“は「彼は水を欲しがっている」という客観的な表現ができるものの、“I want water”を直訳すると「私は水を欲しがっている」という具合で、客観的な直訳だけどポンコツな日本語になってしまいますので、「水が欲しい」という主観的な訳にたどりつくことになるのです。日本語の表現は主観的だけど、英語は客観的であることの一例です。こうした構造と表現との違いが判っている人たちによる複数言語の使い分けは、特定の言語生活の中で時間とともに、次第に慣れて出来るようになるものだと思います。
さて、当方はときどきコトバの病気になるので、今回は日ごろから気になっていることのほんの一部を述べてみました。また、以前も述べたかもしれませんが、1990年代の初め、我が子らが生まれた頃に当方が思い描いていた将来の予想図は、「20年後(2010年ごろ)までには、ヨーロッパ人のように、多くの日本人が、英語はおろか、様々な外国語を自由自在に話す世の中になっているのだろうなあ」ということでした。でも、実際はご存じのとおりです。以上、皆さまの英会話や外国語コミュニケーションのご参考になれば幸いです。
イギリス人は義務教育期間に文法を学びません。イギリス人に英語文法の質問をしても、英語の先生でない限り、ほとんどの人が答えられません。最初に英文法を作ったのは英語を学ぶ必要性を感じた200年前のドイツ人です。
大丈夫か、日本人の英語
カルチャーショック理論でも述べましたが、自国に戻った時に経験する逆カルチャーショックのように、外国語を学んでいるときにも似たような経験をします。外国語を学んでいるうちに、日本語の意外な姿や矛盾が見えてきたり、学んでいる言語の影響を受けて、その表現や文法を日本語でも使ってみたり、本来のコトバはこうあるべきではなかろうかという疑問を抱いたりします。例えば、第四文型SVO¹O²は、英語だからこそ、その順番が重要な意味を持ちますが、助詞の格関係で表現する日本語では、「を」と「に」の位置はさほど重要とされていません。しかし、「誰に何を与えた」とする場合は英語と同じ順番にした方が分かりやすいかな、という具合です。もちろん、これはマニアックな話なので、あまり気にしないでください。 我が子らは幼児期から本好きでした。そして、10歳ごろまで毎晩妻が英語の本を、当方が日本語の本を読み聞かせていました。文章力でも、理解力でも、その効果は明らかであったと思います。そして、間違った言葉や、だらしない表現を使わないという副産物もあったような気がします。ちなみに、画像は当方の子ではありません。
その一方で、日ごろから、日本人の使う外来語を聞いてると、日本人の外国語学習やスキルは、将来どうなるのかなあと少し心配になります。たとえば、ヘボン式文字や明治学院大学の創立者となったHepburn 「ヘボン」の発音はどうあるべきか?とか、 本来は「報復」「復讐」などを意味するrevenge「リベンジ」、 「緊張」「圧力」などを意味するtension 「テンション」など本来の意味とは全く使われ方が異なる単語の使い方、 そして、当方がひとつの記事にしてしまったほど日本人の使い方が混乱しているclaim「クレーム」などの将来性を案じています。クレームについては過去記事を振り返って頂けたら幸いです。
ヘボンの場合、Hepburnという綴りに対してもう一つの日本語表記があります。それは、オードリー・ヘプバーンの姓です。国際音声記号であれば、[hépbɚːn]ですので、音に合わせて無理くりに和英混合スペルをすれば、「へpバ(ボ)ーン」と表せます。日本語では母音を伴わない子音は、発音されないことが多いので、pが無視されて、「ヘボン」とか「ヘッバーン」と聞こえてしまうんでしょうかねえ。[ɚ]という音は、日本人には「あ」にも「お」にも聞こえる英母音です。
オードリー・ヘプバーンと明治期に来日したヘボン神父は親類なのでしょうか。調べてみたら、面白いかもしれません。
リベンジの場合、20年ほど前のプロ野球の新人ピッチャーが、メディアとのインタビューの際に、他チームのピッチャーとの投げ合いで負けた後に「リターンマッチをして勝つ」という意味で「〇〇投手にリベンジする」という表現をしていました。プロになったばかりのころ、彼は「自信が確信に変わった」という発言をしてから、当時では、まだ珍しかった口頭表現力の豊かな野球選手として認知された人物です。ただし、リベンジには、「やられたら、やり返す」という個人的な野心や復讐心が込められているので、使い方としては限られてくるような気がします。英語のネイティブ話者との会話で使うと、おそらく「物騒な人だな」とか、「ユニークな表現をする人」と思われるでしょう。
I will revenge him at next match. 「次の試合で仇を討つ」
I want to win/beat him at next match. 「次の試合で彼に勝ちたい」
笑いやウケを狙いたいのならともかく、普通にコミュニケーションを取りたいなら、後者の表現をお勧めします。もちろん、当方なら前者よりももっと過激な表現で相手を喜ばせますが、さらにこなれた表現を重ねて会話を続けなければ、面白みは伝わらないでしょうから、生兵法は怪我の元です。って、上から目線のつもりではありませんので、ご容赦を。
テンションは緊張であって、気分ではありませぬ
テンションも、一例をあげてみましょう。しばらくぶりに日本に戻った時に、日本政府から要人としての接遇を受けた拙妻(イギリス人)に対して、英語が堪能なはずの、ある高級官僚の若者の口から出て来た“日本語”でした。「はじめまして。有名な木下さん(妻)にお目に掛かれて光栄です。ぼく、今めっちゃハイ・テンションです」 最近の日本文化を知らないイギリス人であれば、意味不明のハイ・テンションでしたが、日本人を良く知る妻は、半分とぼけてジョークで聞き返していました。「え?高電圧で感電しているんですか?大丈夫ですか?」 興奮した若者には妻のコトバが耳に入らなかったようで、その後も 「テンション上がってます」と言い続けていました。 英語ではテンション(緊張)は「張る」か「緩む」ことはあっても、上げ下げするものではありません。彼は緊張し、且つ興奮しているのであって、英語ならI am under tension(ぼく、緊張してます)、且つI am also excited to see you(お目に掛かって興奮しています)という表現が可能です。 英語のテンションを表す画像を探してみました。表面張力は水面の緊張、つまりsurface tensionです。
つり橋はロープのテンションによってバランスが保たれています。
最近は、受信料を取る放送局のアナウンサーでも「テンション上がりますよね」と使っているので、もはや市民権を得つつあるヨコモジなのかもしれません。 しかし、英語として使う場合には、英単語として意味を記憶するだけではなく、語法や使い方(場面による使い分けなど)も知っておかないと、日本や日本語を知らない英語話者には通じない誤用表現のひとつになってしまうことは、今のところ間違いありませんので、ご注意を。特に外国語のコトバやその使い方は、本来の意味を知ったうえで、ひとつひとつ丁寧に扱っていくしかないと常々思うところです。
フラストレーションによる緊張は精神的なテンションです。彼女の場合はhighly strung tension(極度に張り詰めた緊張状態)とも言えます。 She is on edge(崖っぷち)とか、She is too nervousとか、表現は様々。ただし、英語のtensionが喜びで興奮している状態を意味することはありません。
・・・などと、考える一方で、通じりゃいいじゃん。とも思います。つまり、「考えるな。感じろ」というブルース・リーの名言はコトバの世界でも通用することだと思います。間違えていたって、通じりゃいいんです。音声、表現、文法が全部間違っていたってコミュニケーション能力が高い人は相手に理解させます。話すリズムが良かったり、話に勢いや情熱がこもっていたりすると、相手に伝わりやすいことは間違いないと思います。ピジョン言語から生じたクレオール言語のように体系化されていく言語現象の例もありますから、言葉の発展は実に自由自在だと思います。
致命的な間違いを導かないために
ただし、ミステイクとエラーとの違いは判っておいた方がいいと思います。ミステイクは「うっかり間違い」ですが、エラーは「間違えた記憶による間違い」です。スペルのひとつとか発音のひとつとか、コミュニケーションに支障がない程度のローカルエラー(局所的誤り)であれば、誰にでもわかる間違いなので、その場で気づくものです。しかし、致命的な誤解を及ぼすグローバルエラー(全体的な誤り)ですと、コミュニケーションに混乱を招きます。たとえば、英会話の場面で日本語のテンションを使えば、それはグローバルエラーです。 使う単語、時制、アスペクト、論理などに間違いがあれば、意味が全く通じないか、相手に様々な憶測をさせてしまって、人によって異なった解釈をさせてしまい、「何が言いたいのか分からない人」と思われてしまうのです。英語圏に赴任する日本人駐在員の多くが、最初の1年間に、現地採用の英語話者から共通して言われるのは、「あなたが、何を伝えようとしているのか、さっぱり分からない」とのことです。その原因は2つあると考えられます。そのひとつは、今述べたグローバルエラー。語法(語の使い方、当てはめるべき文型)が間違っているのです。40年以上前のことですが、恥ずかしながら、当方にも同じ経験があります。
もうひとつは、コンテクスト(言語外の情報)の違いです。 これだけ言えば、日本人には通じるし、判ってもらえるのに、イギリス人にはいちいち具体的に言わなくてはならない。と、いら立ちを覚えたことはないでしょうか? 日本文化のハイ・コンテクストな(空気を読む)コミュニケーションに慣れてしまっているために、日本人に対して話すのと同じような話し方をイギリス人にしてしまうと、イギリス人にはさっぱり意味が伝わりません。
言い換えれば、日本人同士で共有出来ている常識が、英語文化圏に我々が侵入した途端に常識ではなくなるので、我々の常識の部分を説明する手間が生じるのです。 しかし、その説明を怠ったり、認識出来ないままだったりでは、英文化圏の人からは通じない奴(あるいは、グローバルエラーをもたらす、面倒くさい人物)と判断されてしまいます。たとえ、TOEICやら検定など英語のテストでどんなに結果が良くても、ボキャブラリが豊富でも、文化の違いを認識できていなければ、コミュニケーションが成り立たないので、英語文化圏の人々からの信頼を得られないことになりかねないのです。
養生訓に出て来そうなフレーズです。当方であれば、もう一言付け加えたくなります。
Write before you speak. 「話す前に書いてみろ」 書くことで考えの整理ができます。
Write before you speak. 「話す前に書いてみろ」 書くことで考えの整理ができます。
母語と外国語、それぞれを俯瞰する
英語を話すことと、日本語を話すこととでは、その違いを常に意識し続ける経験から「わたし自身の英語」をかたどっていくことになります。具体的に気を付けるべきポイントを羅列しますと、①具体的な表現を使う、②あいまいな表現を避け、明確なコトバを使う、③結論を(できれば)最初に述べて、その具体的な理由を添える、④キーポイントやキーワードは文頭と文末で繰り返す、そして⑤全体を簡潔にまとめることです。これらのポイントは、どんな言語の作文でも使えますね。当方が商社マンの頃、イギリス人職員たちから言われたのは、「コレスポンデンス(作文)から上手くなってくる日本人は、その後の上達が速い」とのことでした。当方は最初から英作文にも英会話にも自信があったので、これを言われた時に、「え、俺は、今までダメだと思われていたのか」とがっかりしたものです。 多くのイギリス人はA(理由)だから、B(言い訳や状況)になって、結論はCであるという具合に各論から長々と語り始めます。イギリス人の経験論的な発話の特徴です。一方、我々日本人が第二言語として英語で語る場合は、まず結論を述べてから、そのあとに理由を述べる演繹的な発話をおすすめします。
ところで、コミュケーション能力の高い人はそれぞれの言語を俯瞰していると思います。すなわち、自国語と今話している言語との構造(文型・語法)と表現(場面・文化)、それぞれの違いを認識して、その違いを上手に使いこなしています。 たとえば、「水が欲しい」という主観的な表現は“want water”とか“I want water”という表現にできます。 そして、“he wants water“は「彼は水を欲しがっている」という客観的な表現ができるものの、“I want water”を直訳すると「私は水を欲しがっている」という具合で、客観的な直訳だけどポンコツな日本語になってしまいますので、「水が欲しい」という主観的な訳にたどりつくことになるのです。日本語の表現は主観的だけど、英語は客観的であることの一例です。こうした構造と表現との違いが判っている人たちによる複数言語の使い分けは、特定の言語生活の中で時間とともに、次第に慣れて出来るようになるものだと思います。
話の長いイギリス人に、「どこがこの話のポイントなのか」と問いただすと、だいたいの場合は同じことを最初から繰り返します。 「それはさっき言ったでしょ。結論を言いなさい。君はなにがしたいの/言いたいの?」と言えば、人によっては、ちょっと悩んでから、端的な表現を工夫してくれることもあります。
さて、当方はときどきコトバの病気になるので、今回は日ごろから気になっていることのほんの一部を述べてみました。また、以前も述べたかもしれませんが、1990年代の初め、我が子らが生まれた頃に当方が思い描いていた将来の予想図は、「20年後(2010年ごろ)までには、ヨーロッパ人のように、多くの日本人が、英語はおろか、様々な外国語を自由自在に話す世の中になっているのだろうなあ」ということでした。でも、実際はご存じのとおりです。以上、皆さまの英会話や外国語コミュニケーションのご参考になれば幸いです。
マック木下
ロンドンを拠点にするライター。96年に在英企業の課長職を辞し、子育てのために「主夫」に転身し、イクメン生活に突入。英人妻の仕事を優先して世界各国に転住しながら明るいオタク系執筆生活。趣味は創作料理とスポーツ(プレイと観戦)。ややマニアックな歴史家でもあり「駐日英国大使館の歴史」と「ロンドン の歴史散歩」などが得意分野。主な寄稿先は「英国政府観光庁刊ブログBritain Park(筆名はブリ吉)」など英国の産品や文化の紹介誌。