12月に入り、イギリスはクリスマス一色です。お店には祝祭シーズンならではの食べ物もいっぱい並び、気兼ねなく大好物のミンスパイを食べられるようになりました。ところで皆さんは、ミンスパイを手作りするとき、大切な約束事があるのをご存知ですか?
アドヴェント期間に入ってすぐ、ある家庭で起こった出来事を、ここでお話ししましょう。
* * * * * * *
「ママ! 今年はミンスパイを自分たちで作ろうよ。その方が絶対おいしいし、楽しめる気がするんだ。」
11月終わりのある凍てつく朝、ミックはキッチンに降りてくると突然、母親のシェリーにそう言いました。
「あら、いいわよ。ママも去年のお菓子教室で習ったミンスパイの復習をしたいから、その方がいいかな。あんたも12歳になったんだから、手伝いくらいできるでしょ。」
クリスマス当日までの4週間、イギリスはどこもかしこもキラキラに輝きます。この特別な数週間には「アドヴェント」と言う名前がついています。
これはイエス・キリストが降臨するのを指折り数えて待ちのぞむひと月。イギリスでは11月に入ると早々にクリスマスの匂いが立ち込めてきますが、アドヴェントの12月は格別。国をあげて一気に盛り上がっていきます。
ちょっぴりお洒落をしたチョコレートや、お化粧をしたビスケット。クリスマス・プディングやケーキ、外国のパネトーネやシュトーレンなど、クリスマスならではのお菓子も勢ぞろい。中でもミックの大好物が、ミンスパイなのです。
「じゃ、今週の日曜日にミンスミートを仕込みましょう! それまでに買い物をしておくわ。」
やった〜! ミックの心は大はやり。
ミンスパイは、イギリスに暮らす人々の大好物! ちょうど子どもの手のひらにのるくらいのサイズで、まあるい形をしています。バターでサクサクにしたショートクラスト・ペイストリーの中に、ミンスミートと呼ばれるドライフルーツ餡がたっぷりと入ったもの。
このミンスミート用にシェリーが用意しなくてはならないのが、レーズンやカランツ、オレンジやレモンピールなどたくさんのドライフルーツ、新鮮なリンゴ 、スパイス、そして牛のケンネ脂として知られるスエット。
生地に包んで焼く前に、ミンスミートは数日間、寝かせておかなくてはならないのです。しっかり熟成させると味がなじんでマイルドになるから。
ところで皆さん、ミンスミート作りには、ちょっとした約束事があるって、知ってました? かなり昔からの言い伝えです。
そして日曜の朝・・・・。
「ミック! もう起きなさい! ミンスミートを作るわよ〜」とシェリー。
目をこすりながら起きてきたミックも、作業台の上に並んだたくさんの材料を見たとたんに、パッと顔が輝きます。
「あのさ、ママが刻んでくれたら、僕が混ぜるから。」
「リンゴくらいおろし器で準備できるでしょ。さぁ張り切っていこう!」
シェリーは鼻歌を歌いながら、黄金色をしたレーズンや、鮮やかなオレンジピール、特別に手に入れたクリスタライズ・ジンジャーを、リズミカルに刻んでいきます。
Jingle bells, jingle bells,
Jingle all the way♪
「ねぇミック、知ってる? ミンスパイって昔は本物のお肉のひき肉を入れてたのよ。ドライフルーツと一緒に。だからミンスミート(ひき肉)って言うの。」
「えっほんと? なんだか気持ち悪いや。」
「きっとおいしいわよ。ミンスパイのルーツは中近東にあるんだって。キリストの故郷だってイスラエルでしょ? イエスの誕生を祝って、東からやってきた3人の賢者が贈ったという伝説もあるって、お菓子の先生が言ってた。
国は違うけど、モロッコにパスティラっていうパイがあって、お肉とナッツ、シナモンやお砂糖の組み合わせなのよね。似てると思わない? ママはお肉と甘いナッツの組み合わせ、大好き!」
「あ、そう。」
目に入りそうなほど長い前髪をかきあげながら、ミックはチーズおろし器を使って慎重にリンゴを細かくします。
「中東で生まれたお肉のパイは、ヨーロッパから遠征した十字軍の面々が現地で食べたかもしれないの。イギリスに伝わってるミンスパイは、その料理を再現したかもしれないんだって。十字軍と関わりがあるなんて、ロマンを感じちゃうわ〜。」
「ママはすぐにロマンにしたがるんだから。」
「さ、このくらいで足りるでしょ。リンゴはもう終わった? うん、いい感じね。」
「僕、ボウルを持ってくる。ママはほかのことしてていいよ。僕が混ぜておくから。」
「あら、ほんと? まぁ、あとは混ぜるだけだから、いっか。クリスマスまでに庭掃除をしないといけないと思ってたんだ。じゃ、あとは頼むわね。よろしく〜・・・♪」パタパタパタパタ・・・
シェリーが行ってしまうと、ミックは愛犬のムク犬、ジャックと二人だけになりました。
「全部の材料を入れてと。よし、混ぜるぞっ! ジャックはそこで見ててくれ。」
ジャックは目でうなずきます。
ミックは木のスプーンをぎゅっと左手でつかむと、気を入れて混ぜ始めました。最初はゆっくりと、材料をまとめるように。そして全体が混ざってきたら・・・
右から弓をえがくように、左へと回していきます。そう、反時計回りに・・・。
よいしょ、よいしょ。
ミックはドライフルーツとスパイスが、リンゴのジュースやブラウン・シュガーと混ざり合う最高の香りに酔いしれながら、ゆっくり時計とは反対の方向に回していきました。よいしょ、よいしょ・・・
無心になって混ぜていると・・・ミンスミートから立ちのぼってくる、なんともいえない素敵な芳香にほだされ、ミックは夢見ごこちになってきました。
「う〜ん、いい香りだなぁ。まるでミンスパイの国にいるみたいだ・・・」
目を閉じてうっとりしていると、どこからかラッパの響きとともに、大男の声が聞こえてきます。
「ジャック様、ミック様、ミンスパイの国へようこそ! さぁこちらへ、ズズずい〜と、お越しくださいませい。」
「あれ? ここはどこ?」
ミンスミートの香りに誘われ、ミックはいつのまにかミンスパイの国に迷いこんでいました。横を見ると、ジャックも一緒です。
「ジャック様、ミック様、ミンスパイの女王がお目にかかりたいと申しております。宮殿のほうへご案内いたします」。気づくと使いの者らしきスノーマンが、ぴったりと飛び跳ねるようにくっついて来ます。
ミンスパイの国は1年を通して夜らしく、暑くも寒くもありません。地上と何が違うかと言うと、ずっとミンスミートの香りがしていることです。
ミックが気になったのは、スノーマンがどう見ても自分ではなく、ジャックをエスコートしていることでした。ミックはジャックのことを、以前からソクラテスのような顔をした犬だと思っていましたが、今は哲学者そのもののような様子のジャックが、自分の前をしずしずと歩いていきます。
ミンスパイの女王の宮殿は思った以上に華やかで、年中クリスマスのような仕様になっているようでした。遠くからくるみ割り人形が挨拶をしてきますし、ミンスパイの精のような存在もいます。
大広間の玉座に座るミンスパイの女王は、まんまるい顔がミンスパイそのもの。真っ赤なドレスを着た彼女自身から、強烈なミンスミートの香りがしてきます。
「よくぞおいでに、ジャック殿! そしてミック坊や。」
驚いたことに、いきなりジャックが口をききます。
「ミンスパイの女王よ、よくぞ我らを招待してくださった。」
ミックが驚くまもなく、思いのほか渋めの声で、ジャックは紳士然として続けます。
「本日お邪魔したのは他でもない。地球上のすべてのミンスパイを守護する権利が、猫族に横取りされそうだというご報告にまいりました。本来は我ら犬族が守護するものですぞ。」
女王はフッと一息ついてから、こう答えます。
「ジャック殿。耳には入っておる。我らもなぜそのようなことになったのか、調査中じゃ。」
「いえ、女王よ。理由は見当がついているのでございます」と、ジャック。
「なんと。」
「人間が作るミンスパイは、本来は牛のケンネ脂であるスエットをミンスミートに入れるのがしきたりでございましたが、近年、動物の成分を摂取せぬ人間が増えておりまして、スエットやバターの代わりにココナッツ・ミルクで代用するのでございます。」
「そのようなことになっておろうとは・・・」。女王は遠い眼差しの思案顔になっています。
「こほん。そして、そのココナッツ・ミルクの匂いが・・・猫族を引きつけておるのでございます!」 ピシャリ、という感じで、ジャックが女王に言葉を献上しました。
予想もしない展開に、ミックは驚くというよりも、ミンスパイを守護するのは、やはり犬族の方が適任なのではないかと、直感しました。
「して、そちはどのように対処するおつもりじゃ? ジャック殿」と、女王が問いかけます。
ジャックが答えあぐねていると、ミックがこう口を挟みました。
「おそれながらミンスパイの女王様。」
「なんじゃミック坊や。何か良い知恵でもあるのかえ?」
「ここは一つ、僕にお任せください。人間の仕草については、僕がなんとかできると思います。猫族に守護の権利が渡らないようにすればよいのですよね?」
「そうじゃ。おぬしはなかなかの知恵者だとジャック殿から伺っておる。では、そちに一任することにしよう。ジャック殿、異存はなかろうな?」
「はは、もちろんでございます。」
シェリーが庭からキッチンに戻ってくると、ミックがミンスミートのそばでテーブルにうつ伏せになり、気持ち良さそうに眠りこけています。何度名前を呼びながら肩をゆすぶっても、起きる気配がありません。
シェリーは、左手でしっかりと木のスプーンを握っているミックを見て、はっと気づいたのです。
「あらやだ。この子ったら左利きだから・・・ミンスミートをきっと、反時計回りに混ぜちゃったんだわ・・・」
ミンスミートを混ぜるときは、必ず時計回りに混ぜること。これはイギリスではよく知られた決まりごとです。そうでないと、次の1年間を幸福に乗り切ることができないと。
シェリーは一計を案じ、木のスプーンを持つミックの左手に自分の手を重ね、ゆっくりと時計回りにミンスミートをかき混ぜ始めました。おそらく、ミックが混ぜたのと同じ回数に達したのでしょう。ミックは、ゆっくりと目を醒ましました。
「ママ・・・」
「ばかなミック。大丈夫? ミンスミートを作りながら眠っちゃうなんて・・・」
「僕さ、すごく不思議な夢を見たよ。ジャックが・・・」ここでジャックの方を見ると、素知らぬ顔で前足に顔をのせ、寝そべっています。
「ジャックたち犬族がミンスパイの守護を引き続きできるように、僕がんばらないといけないんだ。」
「なんですって?! ミンスパイの守護!? もう、ヘンテコな夢を見ちゃったのね。好きにしなさい。ミンスミートは数日寝かせてから、おいしいミンスパイを焼くことにしましょうね。」
数日後、シェリーがショートクラスト・ペイストリーを作り、器にして機嫌よく手作りミンスミートを詰めています。
ミックといえば、この数日、ジャックの頭をなでながらずっと考えていました。どうすれば犬族にミンスパイの守護を引き続き任せることができるのかと。
将来的にスエットを使わない方向にいくなら、きっと植物性の油が使われるようになる。ココナッツ・オイルの香りを猫が好むなら、もっと別の植物オイルを使えばいいのではないか? そんな考えがよぎります。
猫が嫌いなものについての本も読みました。実はミックたちがミンスパイの国を後にするとき、女王がミックに耳打ちしたのです。
「ミック坊や。猫は、ハシバミを嫌うものぞよ。」
ハシバミってなんだろう? 調べてみると、ヘーゼルナッツではありませんか! つまり、ナッツのオイルのほうが、犬族には優しい。そんな方程式が浮かんできます。
「ママ、ウチにアーモンドとかヘーゼルナッツってあったっけ?」
「アーモンドならあるわよ。」
「ねぇ、アーモンドをトッピングしてみない?」
「ミンスパイに? あまり見ないけど、面白そうね。独自レシピって大好き。やってみよう!」
それ以降、シェリーのミンスパイ・レシピには、アーモンドが加わることになったのです。
「さぁ焼けたわよー! パパが戻ったら、みんなで食べましょう」
「バフっ!」と、ジャックが元気よく答えました。
* * * * * * *
ミンスパイのお話はこれでおしまい。ミックがその後、どうしたかというと・・・。
ベジタリアンの友達に、ミンスパイにオイルを使うなら、ココナッツ・オイルではなく、ナッツ系のオイルにするよう、お願いすることにしました。とくに新鮮なヘーゼルナッツ・オイルが良いと、伝えることにしています。
ミックはその後、毎年ミンスパイを手作りする時期になるとミンスミートを混ぜる手伝いをして、ジャックと一緒にミンスパイの国に戻り、毎年の様子を報告するそうです。
イギリスには12月25日から12日間、ミンスパイを毎日1つずつ食べ続けると、その1年は幸せに過ごせるという言い伝えがあります。驚くなかれ、これはミンスパイ の女王のお墨付きでもあるのです。
(おしまい)
アドヴェント期間に入ってすぐ、ある家庭で起こった出来事を、ここでお話ししましょう。
* * * * * * *
「ママ! 今年はミンスパイを自分たちで作ろうよ。その方が絶対おいしいし、楽しめる気がするんだ。」
11月終わりのある凍てつく朝、ミックはキッチンに降りてくると突然、母親のシェリーにそう言いました。
「あら、いいわよ。ママも去年のお菓子教室で習ったミンスパイの復習をしたいから、その方がいいかな。あんたも12歳になったんだから、手伝いくらいできるでしょ。」
クリスマス当日までの4週間、イギリスはどこもかしこもキラキラに輝きます。この特別な数週間には「アドヴェント」と言う名前がついています。
これはイエス・キリストが降臨するのを指折り数えて待ちのぞむひと月。イギリスでは11月に入ると早々にクリスマスの匂いが立ち込めてきますが、アドヴェントの12月は格別。国をあげて一気に盛り上がっていきます。
「じゃ、今週の日曜日にミンスミートを仕込みましょう! それまでに買い物をしておくわ。」
やった〜! ミックの心は大はやり。
ミンスパイは、イギリスに暮らす人々の大好物! ちょうど子どもの手のひらにのるくらいのサイズで、まあるい形をしています。バターでサクサクにしたショートクラスト・ペイストリーの中に、ミンスミートと呼ばれるドライフルーツ餡がたっぷりと入ったもの。
このミンスミート用にシェリーが用意しなくてはならないのが、レーズンやカランツ、オレンジやレモンピールなどたくさんのドライフルーツ、新鮮なリンゴ 、スパイス、そして牛のケンネ脂として知られるスエット。
生地に包んで焼く前に、ミンスミートは数日間、寝かせておかなくてはならないのです。しっかり熟成させると味がなじんでマイルドになるから。
ところで皆さん、ミンスミート作りには、ちょっとした約束事があるって、知ってました? かなり昔からの言い伝えです。
「ミック! もう起きなさい! ミンスミートを作るわよ〜」とシェリー。
目をこすりながら起きてきたミックも、作業台の上に並んだたくさんの材料を見たとたんに、パッと顔が輝きます。
「あのさ、ママが刻んでくれたら、僕が混ぜるから。」
「リンゴくらいおろし器で準備できるでしょ。さぁ張り切っていこう!」
シェリーは鼻歌を歌いながら、黄金色をしたレーズンや、鮮やかなオレンジピール、特別に手に入れたクリスタライズ・ジンジャーを、リズミカルに刻んでいきます。
Jingle bells, jingle bells,
Jingle all the way♪
「ねぇミック、知ってる? ミンスパイって昔は本物のお肉のひき肉を入れてたのよ。ドライフルーツと一緒に。だからミンスミート(ひき肉)って言うの。」
「えっほんと? なんだか気持ち悪いや。」
「きっとおいしいわよ。ミンスパイのルーツは中近東にあるんだって。キリストの故郷だってイスラエルでしょ? イエスの誕生を祝って、東からやってきた3人の賢者が贈ったという伝説もあるって、お菓子の先生が言ってた。
国は違うけど、モロッコにパスティラっていうパイがあって、お肉とナッツ、シナモンやお砂糖の組み合わせなのよね。似てると思わない? ママはお肉と甘いナッツの組み合わせ、大好き!」
「あ、そう。」
目に入りそうなほど長い前髪をかきあげながら、ミックはチーズおろし器を使って慎重にリンゴを細かくします。
「中東で生まれたお肉のパイは、ヨーロッパから遠征した十字軍の面々が現地で食べたかもしれないの。イギリスに伝わってるミンスパイは、その料理を再現したかもしれないんだって。十字軍と関わりがあるなんて、ロマンを感じちゃうわ〜。」
「ママはすぐにロマンにしたがるんだから。」
「さ、このくらいで足りるでしょ。リンゴはもう終わった? うん、いい感じね。」
「僕、ボウルを持ってくる。ママはほかのことしてていいよ。僕が混ぜておくから。」
「あら、ほんと? まぁ、あとは混ぜるだけだから、いっか。クリスマスまでに庭掃除をしないといけないと思ってたんだ。じゃ、あとは頼むわね。よろしく〜・・・♪」パタパタパタパタ・・・
シェリーが行ってしまうと、ミックは愛犬のムク犬、ジャックと二人だけになりました。
ジャックは目でうなずきます。
ミックは木のスプーンをぎゅっと左手でつかむと、気を入れて混ぜ始めました。最初はゆっくりと、材料をまとめるように。そして全体が混ざってきたら・・・
右から弓をえがくように、左へと回していきます。そう、反時計回りに・・・。
よいしょ、よいしょ。
ミックはドライフルーツとスパイスが、リンゴのジュースやブラウン・シュガーと混ざり合う最高の香りに酔いしれながら、ゆっくり時計とは反対の方向に回していきました。よいしょ、よいしょ・・・
「う〜ん、いい香りだなぁ。まるでミンスパイの国にいるみたいだ・・・」
目を閉じてうっとりしていると、どこからかラッパの響きとともに、大男の声が聞こえてきます。
「ジャック様、ミック様、ミンスパイの国へようこそ! さぁこちらへ、ズズずい〜と、お越しくださいませい。」
ミンスミートの香りに誘われ、ミックはいつのまにかミンスパイの国に迷いこんでいました。横を見ると、ジャックも一緒です。
「ジャック様、ミック様、ミンスパイの女王がお目にかかりたいと申しております。宮殿のほうへご案内いたします」。気づくと使いの者らしきスノーマンが、ぴったりと飛び跳ねるようにくっついて来ます。
ミックが気になったのは、スノーマンがどう見ても自分ではなく、ジャックをエスコートしていることでした。ミックはジャックのことを、以前からソクラテスのような顔をした犬だと思っていましたが、今は哲学者そのもののような様子のジャックが、自分の前をしずしずと歩いていきます。
ミンスパイの女王の宮殿は思った以上に華やかで、年中クリスマスのような仕様になっているようでした。遠くからくるみ割り人形が挨拶をしてきますし、ミンスパイの精のような存在もいます。
大広間の玉座に座るミンスパイの女王は、まんまるい顔がミンスパイそのもの。真っ赤なドレスを着た彼女自身から、強烈なミンスミートの香りがしてきます。
「よくぞおいでに、ジャック殿! そしてミック坊や。」
驚いたことに、いきなりジャックが口をききます。
「ミンスパイの女王よ、よくぞ我らを招待してくださった。」
ミックが驚くまもなく、思いのほか渋めの声で、ジャックは紳士然として続けます。
「本日お邪魔したのは他でもない。地球上のすべてのミンスパイを守護する権利が、猫族に横取りされそうだというご報告にまいりました。本来は我ら犬族が守護するものですぞ。」
女王はフッと一息ついてから、こう答えます。
「ジャック殿。耳には入っておる。我らもなぜそのようなことになったのか、調査中じゃ。」
「いえ、女王よ。理由は見当がついているのでございます」と、ジャック。
「なんと。」
「人間が作るミンスパイは、本来は牛のケンネ脂であるスエットをミンスミートに入れるのがしきたりでございましたが、近年、動物の成分を摂取せぬ人間が増えておりまして、スエットやバターの代わりにココナッツ・ミルクで代用するのでございます。」
「そのようなことになっておろうとは・・・」。女王は遠い眼差しの思案顔になっています。
「こほん。そして、そのココナッツ・ミルクの匂いが・・・猫族を引きつけておるのでございます!」 ピシャリ、という感じで、ジャックが女王に言葉を献上しました。
「して、そちはどのように対処するおつもりじゃ? ジャック殿」と、女王が問いかけます。
ジャックが答えあぐねていると、ミックがこう口を挟みました。
「おそれながらミンスパイの女王様。」
「なんじゃミック坊や。何か良い知恵でもあるのかえ?」
「ここは一つ、僕にお任せください。人間の仕草については、僕がなんとかできると思います。猫族に守護の権利が渡らないようにすればよいのですよね?」
「そうじゃ。おぬしはなかなかの知恵者だとジャック殿から伺っておる。では、そちに一任することにしよう。ジャック殿、異存はなかろうな?」
「はは、もちろんでございます。」
シェリーが庭からキッチンに戻ってくると、ミックがミンスミートのそばでテーブルにうつ伏せになり、気持ち良さそうに眠りこけています。何度名前を呼びながら肩をゆすぶっても、起きる気配がありません。
シェリーは、左手でしっかりと木のスプーンを握っているミックを見て、はっと気づいたのです。
「あらやだ。この子ったら左利きだから・・・ミンスミートをきっと、反時計回りに混ぜちゃったんだわ・・・」
ミンスミートを混ぜるときは、必ず時計回りに混ぜること。これはイギリスではよく知られた決まりごとです。そうでないと、次の1年間を幸福に乗り切ることができないと。
シェリーは一計を案じ、木のスプーンを持つミックの左手に自分の手を重ね、ゆっくりと時計回りにミンスミートをかき混ぜ始めました。おそらく、ミックが混ぜたのと同じ回数に達したのでしょう。ミックは、ゆっくりと目を醒ましました。
「ママ・・・」
「ばかなミック。大丈夫? ミンスミートを作りながら眠っちゃうなんて・・・」
「僕さ、すごく不思議な夢を見たよ。ジャックが・・・」ここでジャックの方を見ると、素知らぬ顔で前足に顔をのせ、寝そべっています。
「ジャックたち犬族がミンスパイの守護を引き続きできるように、僕がんばらないといけないんだ。」
「なんですって?! ミンスパイの守護!? もう、ヘンテコな夢を見ちゃったのね。好きにしなさい。ミンスミートは数日寝かせてから、おいしいミンスパイを焼くことにしましょうね。」
ミックといえば、この数日、ジャックの頭をなでながらずっと考えていました。どうすれば犬族にミンスパイの守護を引き続き任せることができるのかと。
将来的にスエットを使わない方向にいくなら、きっと植物性の油が使われるようになる。ココナッツ・オイルの香りを猫が好むなら、もっと別の植物オイルを使えばいいのではないか? そんな考えがよぎります。
猫が嫌いなものについての本も読みました。実はミックたちがミンスパイの国を後にするとき、女王がミックに耳打ちしたのです。
「ミック坊や。猫は、ハシバミを嫌うものぞよ。」
ハシバミってなんだろう? 調べてみると、ヘーゼルナッツではありませんか! つまり、ナッツのオイルのほうが、犬族には優しい。そんな方程式が浮かんできます。
「ママ、ウチにアーモンドとかヘーゼルナッツってあったっけ?」
「アーモンドならあるわよ。」
「ねぇ、アーモンドをトッピングしてみない?」
「ミンスパイに? あまり見ないけど、面白そうね。独自レシピって大好き。やってみよう!」
それ以降、シェリーのミンスパイ・レシピには、アーモンドが加わることになったのです。
「バフっ!」と、ジャックが元気よく答えました。
* * * * * * *
ミンスパイのお話はこれでおしまい。ミックがその後、どうしたかというと・・・。
ベジタリアンの友達に、ミンスパイにオイルを使うなら、ココナッツ・オイルではなく、ナッツ系のオイルにするよう、お願いすることにしました。とくに新鮮なヘーゼルナッツ・オイルが良いと、伝えることにしています。
ミックはその後、毎年ミンスパイを手作りする時期になるとミンスミートを混ぜる手伝いをして、ジャックと一緒にミンスパイの国に戻り、毎年の様子を報告するそうです。
イギリスには12月25日から12日間、ミンスパイを毎日1つずつ食べ続けると、その1年は幸せに過ごせるという言い伝えがあります。驚くなかれ、これはミンスパイ の女王のお墨付きでもあるのです。
(おしまい)
江國まゆ
ロンドンを拠点にするライター、編集者。東京の出版社勤務を経て1998年渡英。英系広告代理店にて主に日本語翻訳媒体の編集・コピーライティングに9年携わった後、2009年からフリーランス。趣味の食べ歩きブログが人気となり『歩いてまわる小さなロンドン』(大和書房)を出版。2014年にロンドン・イギリス情報を発信するウェブマガジン「あぶそる〜とロンドン」を創刊し、編集長として「美食都市ロンドン」の普及にいそしむかたわら、オルタナティブな生活について模索する日々。