今回2年2か月ぶりに渡英した主な目的は、義父の葬儀に参加するためでした。コロナ禍でも是非参加すべきと思った理由は、日本の東北地方に住んでいた伯父が2021年の6月に107歳で逝去したことと関係します。コロナ禍のために伯父の葬式は行われず、従兄がひとり内々で葬儀を済ませたということを喪中ハガキで知り、とてもショックを受けたのです。イギリスもコロナ禍であるから、葬儀は行われないのかもしれないと思っていましたが、一時期ほどの強い制限はすでに緩和されていて、通常の葬儀を決行するということで、当方も参加することに決めた次第です。
2022年3月ともなると、イギリスへの入国には制限がなく容易でしたが、日本に戻るにはPCR検査2回の陰性が課されていたので、海外から戻るには金銭的にも、労力的にも大きなリスクを伴うだけでなく、多くの人に依存しなければならなくなるかもしれないことを承知のうえでの葬儀参加でした。 義父が亡くなる2週間ほど前には、オンラインで思い出話をして、とても喜んでもらえましたし、人徳の高い義父の葬儀なのだから、どうしても出席すべきという気持ちも高まりました。また、コロナ禍のイギリスでは、どんな葬儀であったのか、と多くの方々から聞かれますので、ちょいと述べてみようと思います。
さて、拙家族は仏教徒の当方以外は、義両親ともにキリスト教の新教メソジスト派です。同派は英国国教会から1795年に分離した実践的な思考を推奨する宗派で、社会活動、教育、外国伝道に重きを置いています。
このような義理両親ですから、義父が余命3か月と宣告された段階で、義父本人の口から、終活の準備を本格的に始めようということになりました。以前から、義父はいろいろと考えていたようですが、実際の段取りのために家族総出で話し合う必要があります。このようなアレンジは日本では考えにくいことかもしれませんが、死を現実に受け容れて、将来に備えるという点において実践的であり、死に対して楽観的であり、且つとても合理的だと思います。
日本では定型の葬儀で、通夜、告別式、火葬場、初七日と進められていきますが、義父の葬儀では、逝去の告知、弔問カードの送付、葬儀当日(教会での礼拝、火葬場での儀式、個人を偲ぶ茶話会)という段取りで執り行われました。逝去の告知はごく親(ちかし)い人々にのみ行いましたが、その輪はどんどん広がって、弔問カードは最終的に300を超えました。義父の人望の篤さが伺えます。教会の礼拝では、故人が亡くなる前に聖書の聖句や賛美歌を決めて、その式次第を決めます。もちろん、決める前に亡くなる場合は親族全員で考えます。逝去後、数日してから葬儀の日程はひと月後と決められました。その理由は、逝去後でも息を吹き返す可能性があるので、伝統として、且つ医学的な理由で、しばらく安置する必要があるとのこと。そして、コロナ禍が続いているので、火葬場の予約がなかなか取れません。火葬場の混雑状況は、ジョンソン首相がコロナ禍の制限を失くした3月以降でももちろん、この記事を掲載する7月でも変わりなく混雑しています。
棺を運んでいるとき、まずその重さに苦痛を覚えましたが、忘れてはならない重みだと自分に言い聞かせていました。ところが、礼拝室に入るなり、祭壇に掲げられた義父のにこやかな遺影が目に飛び込んできたのです。突然、涙があふれ出し、足元がよろけました。腰が痛い。涙で何も見えない。涙を拭いたら、棺は落ちてしまう。わずか5m先の祭壇がはるか遠くに感じられました。それでも、なんとか無事に義父を祭壇に安置。この葬儀の中でも、心身共にもっとも辛い時間でしたが、こうして読者の皆さまに状況を伝えられることに意義を感じます。日本人はイギリス人よりも背が高くあるべきではないのです。(って、そこじゃない)
当方は義父の故郷ヨークシャーにある彼の両親の墓に一緒に埋めてはどうかと提案しましたが、親族の中にはいろいろな思惑があるようで、まだ決まっていません。「墓参り」する場所が必要だから、という当方の発想ですが、墓参りを習慣にしていない人々、あるいは歴史的に忘れてしまったイギリス人にはピンと来なかったようです。むしろ、どんな機会に墓参りをするのか、と質問されたので、当方なりに応えてみました。まず、自分を生んでくれた親に感謝を伝えるための墓参りという当方の個人的な考えです。故人の命日や誕生日の墓参りというのは、宗教を超えた習慣だと思います。そして、仏教では彼岸と盆暮れの墓参りも伝えてみました。しかし、どれも反応はイマイチ。やはり、死生観や宗教観の違いで墓参りに対する考え方が異なるようです。
ちなみに、今回当方が経験した葬儀が、イギリスの定型の葬儀に当たるとは限りませんので、ご注意を。次回も渡英体験談が続きます。
2022年3月ともなると、イギリスへの入国には制限がなく容易でしたが、日本に戻るにはPCR検査2回の陰性が課されていたので、海外から戻るには金銭的にも、労力的にも大きなリスクを伴うだけでなく、多くの人に依存しなければならなくなるかもしれないことを承知のうえでの葬儀参加でした。 義父が亡くなる2週間ほど前には、オンラインで思い出話をして、とても喜んでもらえましたし、人徳の高い義父の葬儀なのだから、どうしても出席すべきという気持ちも高まりました。また、コロナ禍のイギリスでは、どんな葬儀であったのか、と多くの方々から聞かれますので、ちょいと述べてみようと思います。
天使の梯子とも言われる光芒は、多くの宗教絵画にも登場しますね。英国人によって書かれ、且つ日本人しか知らないベルギーの物語と言われる「フランダースの犬」の最後の場面、ルーベンスの絵の前で主人公ネロと愛犬パトラッシュが、なぜ落命したのか、子供用の書下ろしを読んだ幼い頃はよくわかりませんでした。1975年、15歳当時に観たアニメでは、あの光陰の素晴らしさには感動させられました。彼らは餓死あるいは凍死だったのですかね。大型犬は南極でも生き抜いたのに。
どんな葬儀だったか
当方の在英歴は通算で20年近く。親類縁者や友人の葬儀には10回ほど参加したことがあります。 その中には、カトリック、英国国教会、ユダヤ教、イスラム教などの宗教の違いがありましたが、どの宗派でも日本の葬式とは異なっていました。たとえば、人生をまっとうし天国に召されるという考え方なので、悲壮な雰囲気だけに覆われるということは無いように感じられます。もちろん、葬儀中には故人を偲んでずっと泣いている人もいます。さて、拙家族は仏教徒の当方以外は、義両親ともにキリスト教の新教メソジスト派です。同派は英国国教会から1795年に分離した実践的な思考を推奨する宗派で、社会活動、教育、外国伝道に重きを置いています。
ケント州など南部イングランドの植生では、秋になってもこのように黄葉することなく、緑のまま落葉する樹木もあります。たそがれた秋の風景の中で、夫婦が支え合う姿に、義理両親のことを重ね合わせます。拙妻は退職後に両親と一緒に過ごすことを楽しみにしていましたが……。
イギリス人の死生観と現実の直視
その質素倹約の教えの中で、義両親は慎ましい生活を営んで来ました。洗濯機は40年もので、電子レンジやシャワーなどの無い生活、スーパーの買い物はすべて特売品。それでも、年に2回は近場の海外旅行、ゴルフ、ローン・ボウルズなどの趣味を楽しむ充実した毎日。義父はメソジスト教会本部の会計部長を65歳まで勤めた後は、主にSave The Childrenなど国際NGOのローカルショップでボランティアを手掛ける一方で、自らの資産運用もたくみで、その利潤を子や孫たちの何かしらの節目にお祝いとして生前分与していました。いわば、ファイナンシャル・アドバイザー並みの知識と判断力を持つ堅実で賢い夫婦です。一般的にイギリス人といえば、数字や暗算に弱い印象ですが、彼ら夫婦は日本人や中国人と比較しても、かなり数字に強く、損得勘定にも長けていました。その子たちや孫たちにも、数字の強さは遺伝しているようです。ちなみに、拙妻は大学で数学を専攻していました。算術や数学の得意なイギリス外交官は珍しいらしく、原価意識が薄いといわれる公務員の中でも一目置かれる存在でもあります。このような義理両親ですから、義父が余命3か月と宣告された段階で、義父本人の口から、終活の準備を本格的に始めようということになりました。以前から、義父はいろいろと考えていたようですが、実際の段取りのために家族総出で話し合う必要があります。このようなアレンジは日本では考えにくいことかもしれませんが、死を現実に受け容れて、将来に備えるという点において実践的であり、死に対して楽観的であり、且つとても合理的だと思います。
氷上で競われるカーリングに対して、陸上の芝生の上で競われるローン・ボウルズ(Lawn Bowls)は、イギリスでは老後の紳士淑女のゲーム。もちろん、若い人達のリーグも多々存在します。画像に義父はいませんが、65歳からの20年間、チームのエースとして皆から信頼されていました。義父の残したbowlsのセットは当方が引き継ぐ予定です。
日英で、ちょっと異なる弔い
日本では定型の葬儀が一般的ですが、イギリスの葬儀は定型と言っても、個人の選択肢が多いことで、そのアレンジには手間と時間を要します。そのために、妻は余命宣告を受けた義父が亡くなる前に渡英し、義父の看病と義母の生活の手助けをしていました。さらに、亡くなってから葬儀に至るまでの1か月間に葬儀の段取りをしたので、合計で2か月間、父親のためにイギリスに滞在することになりました。その間に起きたことは、ボリス・ジョンソン首相の日本訪問の中止で、それまでに段取ってきた対日関係の仕事がすべて水泡に帰すことになり、妻と職員さんたちは大きくため息をつくことになりました。今や、リモートワークの時代ですから、責任者の妻がイギリスに居て、日本のイギリス大使館のスタッフに指示を出せるわけですね。時間を掛けた日本政府との交渉、綿密なスケジュール設定と段取り、ジョンソン首相の要請に応える諸手続きなど、それらの努力がすべて無駄になったわけです。中止の背景になった理由のひとつはウクライナ危機でした。日本では定型の葬儀で、通夜、告別式、火葬場、初七日と進められていきますが、義父の葬儀では、逝去の告知、弔問カードの送付、葬儀当日(教会での礼拝、火葬場での儀式、個人を偲ぶ茶話会)という段取りで執り行われました。逝去の告知はごく親(ちかし)い人々にのみ行いましたが、その輪はどんどん広がって、弔問カードは最終的に300を超えました。義父の人望の篤さが伺えます。教会の礼拝では、故人が亡くなる前に聖書の聖句や賛美歌を決めて、その式次第を決めます。もちろん、決める前に亡くなる場合は親族全員で考えます。逝去後、数日してから葬儀の日程はひと月後と決められました。その理由は、逝去後でも息を吹き返す可能性があるので、伝統として、且つ医学的な理由で、しばらく安置する必要があるとのこと。そして、コロナ禍が続いているので、火葬場の予約がなかなか取れません。火葬場の混雑状況は、ジョンソン首相がコロナ禍の制限を失くした3月以降でももちろん、この記事を掲載する7月でも変わりなく混雑しています。
1950年には35%、2010年には73%が火葬しています。戦後から土葬は年々減少し、火葬は増加する傾向にあります。現在では、スペースや衛生管理が理由で、法的に火葬が義務化されている地域もある一方で、費用を払って、衛生的な処置をすれば土葬も可能です。また、日本のように檀家として子孫が墓を守るという考え方はありませんので、当然ながら彼岸や盆暮れの墓参りもありません。
祭壇に向かう
教会での礼拝は、参列者の入場、棺の入場、牧師の言葉、友人から聖句の読み上げ、賛美歌という段取りで進行します。今回は、聖句の読み上げのあと、拙娘が自作の詩を読みあげ、その内容の崇高さが参加者たちの胸に深い感動を起こしたと、評判になりました。棺の入場には、当方も参加しました。6名で棺を担ぎ上げ、霊柩車から教会の祭壇へと運ぶのです。当方は日本人ですが、妻の家族の中で最も高身長なので、棺の後ろ端を割り当ててもらったのですが、当日直前になって葬儀屋が異を唱えました。「プロトコル(儀礼)では、故人の長男と次男、あるいは長女の配偶者(義理の息子)が先頭になるべきである」ということでしたので、仕方なく葬儀屋の言うとおりに従います。そして、棺を担ぐと、その全重量が当方の肩に掛かります。その結果として、予想どおり、……腰を痛めました。実に、義弟と当方の肩の高さは3インチ(7.5㎝)も違っていました。葬儀の後、義弟は皆の前で告白しました。「実を言うと、棺は俺の肩に当たっていなかった」と……。2列目でかついでいた拙息子と甥は、共にその重みを感じていたようですが、義母いわく、「マルカム(義父)がそんな重たいはずないわ。重いのは棺」そう言われても、当方の腰痛は癒えません。棺を運んでいるとき、まずその重さに苦痛を覚えましたが、忘れてはならない重みだと自分に言い聞かせていました。ところが、礼拝室に入るなり、祭壇に掲げられた義父のにこやかな遺影が目に飛び込んできたのです。突然、涙があふれ出し、足元がよろけました。腰が痛い。涙で何も見えない。涙を拭いたら、棺は落ちてしまう。わずか5m先の祭壇がはるか遠くに感じられました。それでも、なんとか無事に義父を祭壇に安置。この葬儀の中でも、心身共にもっとも辛い時間でしたが、こうして読者の皆さまに状況を伝えられることに意義を感じます。日本人はイギリス人よりも背が高くあるべきではないのです。(って、そこじゃない)
pallbearer(棺の担ぎ手)を任されたので、写真を撮る余裕はありませんでした。葬儀の様子を撮影するためにカメラマンを雇うこともありますが、義母たちの意向で撮影は無し。画像はわずかです。
ヨークシャ出身の義父のために、ヨークシャ・ローズ(白薔薇)の紋様をあしらったネクタイやタイピンを付けて参列。
納骨は?墓石は?
さて、教会の礼拝の次は、火葬場です。ここでは特に述べることはありませんが、日本との違いは、逝去からひと月も経っているので、故人と対面するお別れの場面が無いことでした。この点は過去の葬式でも同じでした。故人の火葬が完了するまで待たされる場合もありますが、義父の場合は後日遺灰を義母の元に送るという手筈でした。その遺灰は衛生処理が施されているので、墓石の下に葬るなり、散骨するなり好きにして良いという自由な選択肢が与えられています。義父はメソジスト教会本部の貢献者として、ウェストミンスター寺院の向かいにあるメソジスト・セントラル・ホール内にその遺灰の一部が埋葬され、貢献者の記念碑に名前を彫られるかもしれません。他の遺灰は散骨し、墓石は建てないそうです。当方は義父の故郷ヨークシャーにある彼の両親の墓に一緒に埋めてはどうかと提案しましたが、親族の中にはいろいろな思惑があるようで、まだ決まっていません。「墓参り」する場所が必要だから、という当方の発想ですが、墓参りを習慣にしていない人々、あるいは歴史的に忘れてしまったイギリス人にはピンと来なかったようです。むしろ、どんな機会に墓参りをするのか、と質問されたので、当方なりに応えてみました。まず、自分を生んでくれた親に感謝を伝えるための墓参りという当方の個人的な考えです。故人の命日や誕生日の墓参りというのは、宗教を超えた習慣だと思います。そして、仏教では彼岸と盆暮れの墓参りも伝えてみました。しかし、どれも反応はイマイチ。やはり、死生観や宗教観の違いで墓参りに対する考え方が異なるようです。
教会と火葬場での礼拝の後は、亡義父の所属していたゴルフクラブで食事会。義両親の希望で参列者全員(約300名)にCarveryが提供されました。イギリスにしては、手間とお金を掛けた葬儀です。葬儀が終わってほっとひと息すると、無性に空腹を感じました。Carveryとはビーフ、チキン、ポーク、ガモン(ハム)、ターキーなどのローストを中心に温野菜やサラダなどをブッフェ(バイキング)形式で提供するシステムです。通常はガーニッシュ(付け合わせ)の質がイマイチなのですが、画像の見かけ以上に美味しく頂きました。
北極グマあらわる
ところで、2年2か月ぶりにイギリスに戻った当方は、多くのボキャブラリを失っていました。アウトプットに時間が掛かったり、名詞や表現が思い出せずに関係代名詞節が多くなったり……。先に少し触れましたが、棺の担ぎ手をどうやって割り当てるかを親族会議で決めるときに、当方はしばらくその会話についていけませんでした。なぜなら、ひとつの単語の登場に戸惑ったからです。We have to decide the standing position of “polar bear” という言葉から始まった会話で、「なぜ、この場面で『北極グマ』が登場するんだろう?」と心の中で呟きながら、親族の会話の成り行きを見守っていました。やがて、義妹が口にしたWho should stand at the head of the casket, on the right side?(棺の先頭右側には誰が立つべきだろう?)という会話の中にCasket(棺)という言葉が出て来たところで、ようやく気付きました。当方に聞こえていたPolar bear(ポーラーベア:北極グマ)は間違いで、正しくはPallbearer(ポールベアラー:棺の担ぎ手)だったのです。聞き間違えと言うよりも、思い込みによる間違いですね。イギリスに住み続けていたら、あるいはしょっちゅうイギリスに来ていたら、たぶん、こんな間違いはしなかったでしょうけど、「なんで北極グマが棺桶運ぶねん。もう、ええわ」と一人でボケて、自ら突っ込みを入れていました。そのお陰で、Polar bearとPallbearerの区別がつくようになりましたが……。ちなみに、今回当方が経験した葬儀が、イギリスの定型の葬儀に当たるとは限りませんので、ご注意を。次回も渡英体験談が続きます。
マック木下
ロンドンを拠点にするライター。96年に在英企業の課長職を辞し、子育てのために「主夫」に転身し、イクメン生活に突入。英人妻の仕事を優先して世界各国に転住しながら明るいオタク系執筆生活。趣味は創作料理とスポーツ(プレイと観戦)。ややマニアックな歴史家でもあり「駐日英国大使館の歴史」と「ロンドン の歴史散歩」などが得意分野。主な寄稿先は「英国政府観光庁刊ブログBritain Park(筆名はブリ吉)」など英国の産品や文化の紹介誌。