女王エリザベス2世とあなたと・・・ | BRITISH MADE

Little Tales of British Life 女王エリザベス2世とあなたと・・・

2022.10.04

今回は予定を変更して、去る9月8日に逝去されたQEII(女王エリザベス2世)について述べようと思います。

イギリス人だけでなく、多くの日本人もまた、女王エリザベス2世とは何らかの関わりがあると思います。それは直接会ったとか、言葉を掛けてもらったということではなくても、我々と同じ時代に生きてこられた人物ですから、まったくの無関係ではいられません。 1926年に人生が始まったエリザベス王女が、1952年に国家元首となり、2022年まで女王陛下としての役割を果たしてきた記録を辿れば、我々は個々に女王陛下と何かが繋がっていたり、共通の価値観を共有したりしているのではないでしょうか。・・・と考えると、まず日本とイギリスとの関係を振り返ってみたくなりました。


QEIIが崩御した直後、我が息子がロンドンから送ってきた近所のバス停の画像。女王がお亡くなりになることなど誰も考えたくなかったはずなのに、いつの間にか、こうして準備が進んでいたのですね。

1926年 生誕

まず、女王エリザベス2世が生まれた1926年とは、どんな時代であったか。日本では大正15年から昭和元年に移る年。 当方の亡母が昭和2年生まれの1歳違いなので、女王の崩御を知ったときは母を2度も失ったような気持ちになりました。 日本の元号はイギリス人には無関係ですが、女王エリザベス2世は昭和、平成、令和に渡って、それぞれの時代の日英関係に寄り添って下さった、と当方は考えています。

さて、1926年のイギリスと言えば、ゼネラル・ストライキの真っ最中。 第一次世界大戦の戦勝国であったにも関わらず、イギリスではそれだけ左翼勢力が強くなっていました。 戦争には勝ったはずなのに右翼の力が弱くなり、且つ不景気という状況。 戦争のために商売が落ち込み、アメリカから多額の借金をして、ポンドの価値も下がり、世界一の金融国家から転落した頃のこと。 政党政治も自由党vs保守党だったのに、いつの間にか労働党が野党第一党になったことは、政治から「自由」という要素が薄れ、利益関係のぶつかり合う欲得の価値観が、日本を含めた世の中に広がった時代でもあります。 教科書で言う帝国主義とは、その欲得の価値観がグローバル化した考え方です。 つまり、人々が譲歩を忘れ、再び戦争の時代が来ることを予感するだけの状況が整ってしまった状況ともいえます。


QEIIが崩御した日の朝、ロンドンの友人たちから送られてきた画像。 このサイネージに向けて、手を合わせる中国人たちの姿が印象的だったそうです。

1936年 王位継承権

エリザベス王女が女王となるきっかけの出来事が起きたのは10歳(1936年)のとき。 ご存じのように、エリザベス王女の伯父様エドワード8世による個人的な理由による退位と、彼女の父親ジョージ6世の即位です。 イギリスのドラマ『Queen』では、女王となったエリザベス2世が、伯父エドワード8世に面と向かって、その退位を批判する場面が生々しく表現されています。 ジョージ6世が若死にしたこと、そして王位継承権がエリザベス本人に譲られて苦難を強いられたことに対する思いが込められていました。 女王になってからも、彼女がエドワード伯父様の退位を快く思っていなかった可能性は高いでしょう。  ドラマはフィクションですから、実際の人間関係は分かりませんが、そのような葛藤があっても不思議はないと思います。

また、この頃の日本の情勢と言うと、翌37年は日華事変(日中戦争)の年です。 戦争が始まったらもう何もできません。 終わるのを待つしかありません。 抑止のための軍縮や牽制のための軍拡など、戦争を始めないように、戦争が始まらないようにするための段階があるのですが、その段階で起きたことが狂気を含んでいると、その後は「なんでもあり」の状況が続いて戦争という事態に導かれてしまいます。 実際に歴史を振り返ると、戦争が始まるときはだいたいそんなものです。 

では、1937年に日本ではどんな狂気が起きていたか。 二・二六事件とその事件後の処理です。 不思議なことに、日本政府は軍事クーデターを鎮圧したのに、陸軍に怯えて、その後の軍の行動を追認するようなカタチで日中戦争に向かっています。 日中戦争は太平洋戦争を導く、大きな原因のひとつです。 つまり、日本を破滅に導く準備を完了させた最終段階が二・二六事件なのです。 事件が起きたのは1937年ですが、エリザベス王女が王位継承権第一位を授かった1936年には、戦争を導く事件の火種は、すでにくすぶっていました。 もちろん、この事件も、当時のエリザベス王女の預かり知らぬ世界で起きていたことですが、日英双方の国にとって、中ソに台頭した社会主義への対策の時期でもあり、且つ日英の中国権益の競争激化など、日英関係の歴史の中に組み込まれていく事件のひとつでもあります。 

欧州で第二次大戦がはじまった際、イギリスの君主ジョージ6世が、映画「英国王のスピーチ」で魅せたように、見事なスピーチでイギリス国民の意志を結束させたことを記憶されている方も多いのではないでしょうか。 大英帝国の限界が露呈したあの頃から、イギリス王室は国民からの支持を強く意識する存在へと変化していきます。 そして、女王エリザベス2世にとって父君のスピーチとその姿勢は、君主とはイギリス国民のために「こうあるべき」とする良き手本となったのではないでしょうか。


2022年9月11日、東京のイギリス大使館の前にも多くの献花。門の右には記帳所の要領が張り出されていました。

1947年 義母はロイヤル・ウェディングを見た

1947年に7歳だった義母は、ロンドンの郊外クラパムに住んでいたので、家族でダブルデッカーに乗って、ホワイトホール近辺の沿道まで行き、エリザベス王女とフィリップ候のロイヤル・ウェディングを観たそうです。 戦後間もない頃でしたから、 明るい話題に大衆は飢えていました。 子供だった義母には、トランス状態になった衆人観衆が湧き起こす大歓声がとても怖かったとか。

しかし、1960年代以降、ロイヤル・ウェディングの様子をテレビで毎年見るようになってからは、画面を見ずに思い描いていた頃のイメージとは何かが違うと考えるようになったとのこと。 質素倹約のメソディストの教えからはほど遠い、プリンセスの豪華絢爛なウェディングを見て、「私には私の幸せがあって、あの人たちとは違うと思った」ということですから、さすがに個人主義の国の人だけに、ロイヤル・ウェディングでも多角的な視点や価値観で捉えるのだなあ、と感心させられました。 

もちろん、王室の在り方が問題視される以前の時代でしたし、世界中の王侯貴族や各国の代表や貴賓が集まる場所ですから、プロトコル(儀典)上の理由で、ウェストミンスター寺院という大きな器も必要でした。 外交上の役割があるし、観光の場でもあるので、今後も必要でしょう。 そして、この婚姻の段階では、誰もがジョージ6世の行く末を知らずに、王女とフィリップ卿が幸せの階段を上っていく様子を憧憬の思いで見届けていたのです。 ちなみに、質素倹約のメソディスト教の本部は、豪華絢爛たるウェストミンスター寺院とはヴィクトリア・ストリートを挟んだ反対側にあります。 両者が好対照に思えるのは当方だけでしょうか。 


世界で唯一、ティーバッグで描かれたQEIIのデコバージュは拙宅の玄関に飾ってあります。額面の経年劣化が少々。

1953年 戴冠式とソフト・パワー

さて、1953年に女王エリザベス2世の戴冠式が行われます。その前年の1952年はジョージ6世の崩御と女王エリザベス2世の即位がありました。さらにその前年1951年は、日英の国交が回復しています。サンフランシスコ平和条約を批准して、ようやく日英間の戦争状態が終わったわけです。 この流れで、後に平成天皇(令和の上皇)となる明仁親王陛下(当時は皇太子)が戴冠式に参列されます。
 
平和になって国交が回復される際、二国間は互いにソフトな接触をします。 この接触を行う代表は、日本の場合は皇室の皆様であり、イギリスの場合は王室の皆様です。 このソフトな接触をするうえで、もっとも大事なことは、経済力や軍事力などの強制力を伴わずに、継続性や安定性を目的とする「会うこと」です。 強制する「力」はともないませんが、「権威」はともないますから、ソフト・パワーとも言われます。 つまり、1953年は日英のソフトな外交が本格的に再開したということで、その戴冠式は日英だけでなく、世界的な秩序の安定性を広げ、その継続性が期待されるきっかけになったポイントであったと言えます。 

歴代のイギリス王室は、何百年もの間、ウェストミンスター寺院を増築し、拡大し続けては、婚姻や戴冠式で、その政治的・軍事的な権威を民衆と各国の代表者に見せつけて来ました。 女王エリザベス2世の場合も、その後の王室行事でも、ウェストミンスターという巨大な器の威力を示してきました。 そして、王室の権威を維持するための装置として今日まで継続し、ハード・パワー(軍事力・政治力・経済力)を凌駕する存在になることもありました。 女王エリザベス2世の存在とは、まさにソフト・パワーの外交を積み重ねた結果として発揮されるハード・パワー以上のパワーによって、外交関係を広く、且つ深く築いていったので、その人柄が広く人々に慕われることになったのではないでしょうか。 その好い例のひとつが、コモンウェルス(イギリス連邦)でしょう。 カナダやオーストラリアなど元植民地であった国家群はエリザベス女王陛下を元首として拝する緩やかな団結を構成しています。 独立国家として国際的に認められたといえども、元植民地の人々の心には、元宗主国へのあこがれや、今後も関わりたいという所属意識が残るのかもしれません。

ところで、第二次世界大戦、太平洋戦争の後、日英の政治・経済関係はかなりギクシャクしていました。しかし、文化・芸術・教育を背景とした外交面では、かねてから日本の外交官たちのイギリスに対する歩み寄りや努力もあっただけでなく、先に述べた皇太子の戴冠式参加などで、1960年代以降に日英関係はソフト・パワーによって回復の兆しが見られるようになります。 たとえば、高度経済成長する日本を新たなマーケットと見越して、自由貿易を進める方向で両国が歩み寄りを始めた時期です。 戦後の駐日イギリス大使館で作成された日本に関する経済・政治白書によると、元来から、日本人の多くはイギリスの文化を尊重し、自動車など英国の製品にあこがれやステータスを抱いていました。 ジャギュア(ジャガー)やアストン・マーチンなど高級車にあこがれ、イギリスブランドの衣類はそのデザイン性が日本では広く受け入れられ、British Made などの商品の人気が続き、紅茶の文化などはいまだにもてはやされているように、その状況は長く続いています。 ある意味、日本人が無条件にイギリスの製品や文化を受け入れることに対して、何かしらの幻想でも抱いているのではないかという記述も残っています。


もうひとつ、玄関に置いているのは女王のトートバッグ。 買い物はいつも女王と一緒。

女王エリザベス2世と我が家と……

ただ、そうやって英国の製品や文化を有難がるきっかけや、その人気の継続性を生み出してきたのは、戦後の反英の期間(戦前~1960年代後半)が終わって、イギリスの文化伝統に対する憧憬や尊重の態度を再び示すことが許される時代に戻ったことと、イギリス王室の来日などの機会であっただろうと思います。 そして、イギリスの王室と日本の皇室との類似性、同質性、話題性、異質性、関係性などは、多くの日本人が意識していくうちに、日本人のイギリスに対する憧憬の態度は、ソフト・パワーとして民間外交のレベルでも発揮されてきたと考えられます。 今日で言うなら、日韓の政治・外交関係に問題があっても、芸能、食、文学などの文化面では互いの国民が健全に交流し合っている状態、これもまたソフト・パワーの一例と言えるでしょう。

ところで、当方の場合、人生で最初にエリザベス女王を意識したのは、1975年頃(14,5歳)のことですが、その年の女王の日本訪問の機会ではなく、モンティ・パイソンというイギリスの番組を観たことでした。 記憶が正しければ、東京12チャンネルで放映していたと思います。 国営放送BBCの番組なのに、アニメーション上の女王の肖像画を足で踏み潰すという場面に驚愕し、笑い転げました。 同時に、「国営放送が、しかも庶民が女王様をこんな扱いにしていいの?」という疑問も湧きました。

日本だったら、天皇陛下や皇室に対して、このようなアニメは作れないだろうなあ、と15歳の中学生でも判ったことですが、同時に「それはユーモアだから・・・」と割り切って、腹を立てることもなく、放映を許すエリザベス女王とはどんな人なのだろうという興味も湧きました。 

最後に、拙宅にあるエリザベス女王グッズを紹介します。女王の署名入りで賜った外交官信任状や大英帝国勲章。もちろん、当方が貰ったものではありません。 勲章は2002年の沖縄サミットとフットボールW杯の功績ということで、拙妻が2003年に頂戴したものです。 バッキンガム宮殿で行われた勲章の授与式には当方も参加しました。 授与式では、「キノシタ」という和名が宮殿内に響き渡り、とても不思議な感覚を覚えました。 日本人が授与される場合、授与式は東京のイギリス大使館で行われるものなので、元来、日本人の名前が宮殿内で読み上げられることはあり得ないことなのです。


QEII直筆のサインが施された外交官信任状。当方との婚姻で姓が変わったことや、グレードが変わったことによって、信任状は何度か発行し直されています。画像はKINOSHITAとありますから、婚姻後の信任状ですね。下のサインは当時の外務大臣ダグラス・ハード。

拙妻は女王の前で片膝を曲げて会釈すると、少し言葉を交わし合って儀式を終えました。 その撮影は一切不可です。 その理由は、安全上の問題もあるのでしょうけど、叙勲式のビデオと記念画像を受章者やその家族に販売する王室のビジネスではないかと思います。 女王陛下は1992年のウィンザー城の大火以来、王室の経営が上手になられました。 ちなみに、日本の叙勲では金一封が出るそうですが、イギリスではメダルを貰うだけです。 受章者を増やせば増やすほど、ビデオや画像の収入が増えるわけですが、なぜか10年ほど前から受章条件を厳しくしています。たとえば、駐日英国大使に就任する前後に、自動的に聖マイケル・聖ジョージ勲章を受章してSirの称号を受けていましたが、2008年ごろからSir/Dameの称号を与えられずに大使に就任しています。王室に何か事情があるのかもしれませんが、あえてここで追究しないことは暗黙のプロトコルであります。 以上は、女王と当方の物語でした。 さて、あなたと女王エリザベス2世とでは、どんな物語をお持ちでしょうか?

なお、女王エリザベス2世のご逝去には、心から哀悼の意を表します。本当に悲しすぎます。


在外イギリス外交使節団の大使、公使、総領事などの公邸には、必ずこの肖像画が提供されています。


Text by M.Kinoshita


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マック 木下

マック木下

ロンドンを拠点にするライター。96年に在英企業の課長職を辞し、子育てのために「主夫」に転身し、イクメン生活に突入。英人妻の仕事を優先して世界各国に転住しながら明るいオタク系執筆生活。趣味は創作料理とスポーツ(プレイと観戦)。ややマニアックな歴史家でもあり「駐日英国大使館の歴史」と「ロンドン の歴史散歩」などが得意分野。主な寄稿先は「英国政府観光庁刊ブログBritain Park(筆名はブリ吉)」など英国の産品や文化の紹介誌。

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