ロンドン・ターミナル駅シリーズ その6|ロンドンの北の3駅「後半」ついでに、ウォータールー駅も | BRITISH MADE

Little Tales of British Life ロンドン・ターミナル駅シリーズ その6|ロンドンの北の3駅「後半」ついでに、ウォータールー駅も

2022.12.06

ユーロスターの発着駅と意外な名前

さて、今回は前回の続き。北の3駅について、当方独自の視点から述べて参ります。まずはセントパンクラス駅について。 この駅はIATA(国際航空運賃協会)の3レターコードでQQS と表され、国際ターミナル駅として認知されています。航空マンだった頃、QQSのような3レターコードを口頭で表す場合には “Queen、Queen、Sugar” などと発声していました。 NATO(北大西洋条約機構)フォエネティックコードとも呼ばれます。 なぜ口で読み上げる必要があるかというと、航空会社、鉄道会社など各社内で共通するコンピュータの予約システムに地名を入力する際に、それぞれの会社の職員たちが実際の地名ではなくコードを使うことで、場所を特定しやすくするため、且つスペルの間違いを減らすために行う伝達手段なのです。本来は軍の連絡用語から派生したものですが、英語圏では氏名や地名を確認するために旅行の予約や警察無線などにも使われています。銀行などと電話でやり取りする場合でも、氏名などを正確にスペルするためにも使われます。 たとえば、当方のようなKINOSHITAの場合、King, India, November, Oscar・・・てなもんです。 また、日本の航空業や旅行業ではGをGeorgeと言うなど、GをGolfと言うNATOとはコードの種類が多少異なるようです。 他にも、パディントン駅は QQP、キングス駅はQQSです。

そして、もちろん、2007年までユーロスターのターミナル駅だったロンドン・ウォータールー駅にもQQWという3レターコードが割り当てられています。今でも国際駅として認知されているのですが、ユーロスターのターミナル駅としては、開業時の1994年の段階では暫定的な国際駅でした。その理由は開業時期を早めるために、ウォータールー駅からケント州を走る在来線を使う一方で、セントパンクラス駅からは高速新線HS1(High Speed 1, 別名CTRL:チャネル・トンネル・レイル・リンク)を敷設する工事が進められていました。


ユーストンの駅前には、オーストラリア大陸を周回し、その命名に関わった航海者・海図作者マシュー・フリンダースの銅像があります。オーストラリア国内では、ヴィクトリアに次いで多い地名がフリンダースなのだそうです。 フリンダースの銅像はイギリスとオーストラリアで多く散見されますが、彼と晩年を共にしたTrimという名前の猫が常に一緒だそうです。


1994年当時の当方は、ドーヴァー方面に向かう南東方面の在来線沿い、つまりテムズ川右岸(南側)の、さらに南の内陸部に住んでいました。 ユーロスターと在来線の走行音を聞き分けていましたが、2007年からユーロスターはダートフォードの東までテムズ河の左岸(北側)を走ることとなり、南東方面の在来線近辺ではその走行音は聞かれなくなりました。 在来線時代のユーロスターは、最先端技術のモーターを搭載していましたが、ゆっくりと走っていても聞こえてくる近未来的な走行音に、「パリやベルギーに行きたいなあ」と旅愁をかきたてられたものです。 やがて、新線を走るようになってからというもの、ユーロスターは本当の高速鉄道に変身しました。 そして、ユーロスターは現在のウォータールー駅にかすりもしません。

ユーロスターは、2007年までロンドン・ウォータールー駅からこの地図のEbbsfleet辺りまでの黒い路線、つまりナショナル・レイルの南東線(Network South East)の在来線を使っていました。


ユーロスターと英仏の因縁

当初の話ですが、ユーロスターのターミナル駅がロンドン・ウォータールー駅になったことを苦々しく思っていた人たちがいます。 その人たちとは、誰あろう、フランス人です。 そのことがよく分かる歌も有名です。 スウェーデンの歌手ABBAが1974年に発表した歌曲“Waterloo”(邦名「恋のウォータールー」の内容で、当時の若きフランス人たちの間でも不思議な盛り上がりを見せたという報道もあったと記憶しています。 今でも老若男女が口ずさむ不朽の名曲の元になった駅ですが、実のところ、英仏関係の歴史でも、ウォータールーとはフランス人にとって悔しい歴史を思い起こさせることを知る人も多いと思います。

ウォータールー駅はもともと、ウォータルー・ブリッジ駅と命名されていました。


ご存じのように、ウォータールーとはフランス語発音ではワーテルローとなります。つまり、1815年にウェリントン公爵の率いるイギリス軍が、ナポレオンの率いるフランス軍を撃破した戦地がベルギーの首都ブリュッセルの南に位置する地域ウォータールー(「水の草原」に由来するという説あり)なのです。 戦勝記念として命名されたウォータールー橋にちなんだ駅舎として、当初はウォータールー・ブリッジ駅と名付けられました。 94年のユーロスター開業前、パリの駅周辺には、「ロンドンなら行ってやるが、誰がワーテルローに行くものか」という主旨で多くの落書きが見られたと、パリの同僚から聞かされたことがあります。 その後、2007年にセントパンクラス駅に新しい国際ターミナル駅が完成すると、パリの駅には「ワーテルローを忘れろ」“oubliez waterloo”という巨大な広告が掲げられていました。 もはや、200年前の戦争の結果にこだわっている時代ではないということでしょうか。英仏間の外交関係は民間レベルでも成熟しているようです。

ただ、少し気になったのは、欧州の各国は自国の敗戦について、歴史の授業ではあまり触れない傾向があること。 当方にはフランス系スイス人の親類や、スペイン人の友人がいますが、それぞれに対英戦争の歴史が話題になった時に、敗戦の地名を言っても「習ったことがない」と言い張った挙句、そこで歴史の話は終わってしまい、話題を変えられてしまいます。 そういえば、日露戦争を知らないと言い張る若いロシア人もいましたっけ。 自国の負けは認めたくないという気持ちはよく分かりますが、逆に、日本人はいまだに敗戦国としての足かせを引きずったままのような気がします。


ウォータールー・イースト駅の入り口はここだけ。一日の利用者はほとんどいません。なぜなら、ウォータールー・イースト駅の利用者の99.9%は、ウォータールー駅との乗り換えに使うだけだから。この入り口を探すのは苦労しました。しかも、プラットフォームに向かう階段の一段ずつが30㎝と踏み台昇降運動の台のように高いだけでなく、ビル5~6階分の高さまで昇ります。リフトやエスカレータもありません。


列車名になった謎のフランス人

ところで、日本の列車には「ひかり」や「のぞみ」などのように名前がついています。 同様にユーロスターにも列車名が付いています。スペルでは Michel Hollard。イギリス人によってはミシェル・ホラードと発音する人もいますが、フランス語としてはミシェル・オラールの方が発音表記として近いと思います。正しい発音は…各位、頑張ってください。最後の“r”がフランス語発音、且つ子音で終わるため、特に難しいですかね。

手前ではなく、奥にある車両の窓の左側にある銘板には、Michel Hollardと記されています。 英仏の平和の象徴として命名されたわりには、イギリス人にもほとんど知られていません。こんなに小さい銘板ではねえ・・・。

さて、いつのことであったかは忘れましたが、当方が鉄ちゃんよろしく、ユーロスター乗車前に先頭車両を撮影している時に小さな文字銘板が目に入りました。 周囲には何の案内もありませんし、駅員に質問しても、単なる列車名としか教えてくれません。スマホ以前の時代だったので、その場で調べることもなく、何年間も画像は倉庫(外付HDD)に放置されていました。 後年、ユーロスターの特集番組をBBC放送で見ている時に、少しだけミシェル・オラールの説明が出てきたので、改めて調べてみると、第二次世界大戦の際に、なんとロンドンをナチスの爆撃から救った英雄がオラール氏とのこと。しかも、名前のとおり、イギリス人ではありません。

ミシェル・オラールは1898年にフランスで生まれ、1993年に亡くなっています。戦後の1940年代後半に、第二次大戦での業績から大佐に昇格し、フランス政府から勲章を授与されましたが、広く世間に知られることはありませんでした。 戦時中、実業家でありながらスパイでもあった彼は、ドイツ人技術者のポケットにあった設計図から、ロンドンを攻撃目標にしたV1飛行爆弾の発射場104カ所を示すスケッチを描きました。

そして、そのスケッチをスイスとフランスの国境を越えて、永世中立国スイスの首都ベルンのイギリス大使館まで、危険を顧みず98回にわたって運びます。さらに、オラールの作った発射台の模型によって、ドイツに占領されていたフランス北部で竣工間近だったV1弾の発射台を特定し、1943年12月、イギリス王室空軍が100基以上のV1発射台を空襲で破壊したことで、ロンドンを含むイギリス南部への壊滅的な空爆を防ぐことができたという話です。 もし、ロンドンが壊滅的状態になっていたら、ヨーロッパ戦線を決定づけた後のノルマンディ作戦の決行は不可能だったろうと、アメリカのアイゼンハワー大統領がその回顧録で述べています。 つまり、とても簡単に言うと、ロンドンを救った英雄の名前がユーロスターに採用されて、英仏の架け橋となる美談として今日まで残ったということです。


2007年、イギリスからスイスへの転勤は、陸路とユーロトンネルを通って、自家用車で済ませました。当時のサリー州の自宅から、フォークストンまで行って、ユーロスターに乗り込む順番待ちの場面。


オラール氏がイギリスであまり有名になっていない理由はいくつか考えられます。イギリスのスパイがイギリス人として叙勲されることは珍しくありませんが、フランス人スパイであるオラール氏の功績を、当時のイギリス側が十分に正当な評価をしていなかった可能性があることがそのひとつ。 実際に、オラール氏はフランス政府からは、レジオン・ドヌール勲章などの幾つかの栄誉を受けていますが、当方が調べた限りではイギリスからの叙勲は、なぜか受けていません。 オラール氏はナチスに対する抵抗勢力のレジスタンスの一員として活躍したにも関わらず、その日の目を見るのは彼自身の没後、ユーロスターの列車名になるという形でようやく具現化されたのです。

ユーロスターの鉄道網を見ると、ヨーロッパが近くに感じられます。え?イギリスもヨーロッパだって? 確かにそうなんですが、イギリス人は大陸をヨーロッパと言うんですねえ。英会話の授業では習いそうにない表現ですね。


北の駅ユーストン

ユーロスターの逸話がセンセーショナルだったので、セントパンクラス駅に関する話が長くなってしまいました。つぎにユーストン駅についてふれてみます。 ロンドンの北の駅ユーストン駅は1837年に創業開始しますが、立地する場所によっては、異なった駅名になった可能性があるのです。まず、1837年にロバート・スティーブンソン(鉄道の父と言われたジョージの息子)によって、カムデンタウンの北側に位置するチョークファームに設置する計画が立てられましたが、まだ植物の苗を育成する商業用ガーデンが残る地域だったことから、蒸気機関車が空気を汚染するであろう周辺環境を考慮して、マーブルアーチ、あるいはイズリントンなどの周辺が計画されました。しかし、最終的に開発のしやすいユーストン・グローヴという原っぱに駅舎を建てることに決まったのです。 つまり、ユーストン駅は、ロンドン・チョークファーム駅などという安っぽい駅名になった可能性もあった一方で、ロンドン・マーブルアーチ駅というゴージャスな駅名が誕生する可能性もあったわけです。 マーブルアーチの前身は18世紀末までタイバーン絞首刑場でしたので、悪趣味なマニアの間ではロンドン・タイバーン駅を望む声が上がったとか…。 つまり、19世紀の中頃まで、ユーストン界隈など、現在のロンドンの中心地にもまだ牧歌的な風景が残っていたのです。 また、 立地する場所によって駅名が決まるわけですから、現在地下鉄で使われているどんな駅名にも、 現在のユーストン駅が担う役割を背負う可能性があったということでもあります。

1837年 ユーストン駅 from wikicommons


ユーストン駅が開業したのは1837年、まさにヴィクトリア女王の統治が始まった年でした。駅舎は高さ72フィート(約23m)、ポルティコの柱のアーチが掛かった古代ギリシアを模した様式。 当時のロンドンの建築物の中では最高の高さであり、鉄道時代と大英帝国の隆盛を極めた、ヴィクトリア時代の象徴的な存在でした。バーミンガムなどミッドランドや北部イングランドから来る人々にとって、ロンドンの玄関ユーストン駅は、あまりにも壮麗なので、故郷の駅舎に対して敗北感や絶望感を持った人たちも多かったというエピソードも残っています。 同時に、ロンドンに負けまい、バーミンガムを盛り上げようということで、1854年には世界最大のシングルアーチの駅舎を誇るバーミンガム・ニューストリート駅が地元バーミンガムの資産家たちの支援で造られたということですから、ユーストン駅の存在が、バーミンガムの人々の地元意識に大きく影響したのですね。

1854年 バーミンガム・ニューストリート駅 from wikicommons


やがて、ユーストン駅の利用者の増加とともに駅舎も拡張し、1849年までにグレートホールが建造されたことで、さらにゴージャスな景観を整えます。そして、駅の西にヴィクトリアと東にユーストンという2つのホテルも併設していました。ロンドンの巨大ターミナル駅にはホテルがつきものですが、 これらのホテルは駅に併設するホテルの先駆けとなったのです。 グレートホール自体も141室を持つホテルでした。

しかし、1960年代までに建物としての償却期間の終わりを迎えます。現在の味気ない風貌にならざるを得なかった状況に晒された駅舎ですが、もちろん解体反対運動も起こります。その先導者として有名な人物が、ヴィクトリア時代の建築物を擁護する桂冠詩人サー・ジョン・ベジェマン(Sir John Betjeman)です。彼はいくつかの駅舎を、その解体の危機から救っていますが、ユーストン駅とキングスクロス駅だけは叶わなかったようです。それでも、セントパンクラス駅がほぼ建設当時のまま残されて、魔法学校の映画にキングスクロス駅として登場したことは、彼の功績と言えましょう。銅像となった彼はセントパンクラス駅の広場で、今でも駅舎の尖塔を見上げています。 現在のユーストン駅舎は味気ないとか、文化的価値が失われたとか、多くの批判を浴びながらも、将来の安全性を重視して、1968年に建て替えられたものです。若き女王エリザベス二世が新駅舎のオープン式典に参加されていますが、先日(2022年11月10日ごろ)に見た限りでは、新しい改修が始まっていました。それでも、魔法学校への出発駅として、将来もその機能を果たして行くのでしょう。


セントパンクラス駅にあるサー・ジョン・ベジェマンの銅像

次回は、小さくてもロンドンの要所に位置する・・・あの駅です。



Text by M.Kinoshita



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マック 木下

マック木下

ロンドンを拠点にするライター。96年に在英企業の課長職を辞し、子育てのために「主夫」に転身し、イクメン生活に突入。英人妻の仕事を優先して世界各国に転住しながら明るいオタク系執筆生活。趣味は創作料理とスポーツ(プレイと観戦)。ややマニアックな歴史家でもあり「駐日英国大使館の歴史」と「ロンドン の歴史散歩」などが得意分野。主な寄稿先は「英国政府観光庁刊ブログBritain Park(筆名はブリ吉)」など英国の産品や文化の紹介誌。

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