ロンドン・ターミナル駅シリーズ その7|小さいけど、重要なチャリング・クロス駅 | BRITISH MADE

Little Tales of British Life ロンドン・ターミナル駅シリーズ その7|小さいけど、重要なチャリング・クロス駅

2023.01.03

王妃エリナーからチャリクロへ

Charing X(cross)とも表示されるチャリング・クロス駅と言えば、ロンドンの中心の駅と断言するイギリス人がいます。2022年に85歳で亡くなった義父もそのひとりでしたから、年齢の高い人たちの認識かもしれません。 また、駅近くのパブ、1/2(Halfway) to Heavenなどで飲んでいるイギリス人に聞くと、「ロンドンの中心となるクロス(交差点)があるからな」と断言する人もいました。 ただし、それは一般によく言われていることであって、何の中心であるのかが分かってない人もいます。 ケント州の南東部にしか鉄道路線が無くて、プラットフォームが6つしかないこの小さなターミナル駅がロンドンの中心と言われる理由、それは1291年に設置された記念碑が、この地域を代表する地名となったことと、19世紀になってから、江戸の日本橋のように道路交通の元標となったことに由来があるとされています。

1291年に最初に設置され、1863年に再建された記念碑とは、エドワード一世王が王妃エリナーの死を悼んで建てたエリナー・クロス(十字架)碑のこと。 ですから、エリナー・クロスという駅名になる可能性もあったはずです。 そして、その地域名がシエラン(川の曲がり)と呼ばれていて、時代とともにチャリングへと音声変化したのだろうという説を見つけました。 確かに、チャリング・クロスの護岸(エンバンクメント)で、テムズ河は北西方向へとほぼ直角に曲がっています。 つまり、エリナー・クロスの建てられた地域は、シエランにあるクロスと呼ばれ、やがてチャリング・クロスへと変化し、我々在英邦人に至ってはチャリクロと呼ぶようになったということです。


ロンドン・ターミナル駅シリーズ その7|小さいけど、重要なチャリング・クロス駅かつてのエレアノール・クロスは現在のチャールズ二世像の位置にありましたが、現存するこのレプリカは、ヴィクトリア時代にチャリクロ駅の敷地内に建てられました。


「ロンドンの中心」と言われるようになった、もう一つの説として考えられるのは、トラファルガー広場の東側からセント・マーティンズ・プレイス、チャリング・クロス通り、シティに通じるストランド、テムズ堤防に通じるノーサンバーランド通り、パーラメント広場に通じるホワイトホール、アドミラルティ・アーチとバッキンガム宮殿に通じるモール、そしてポールモールに通じる2本の短い道路など、6つの幹線ルートの交差点(クロス・ロード)であることです。 つまり、チャリクロはロンドンの交通の要所にあり、どこに行くにも必ず通る交差点であり、且つ便利なので、中心と呼ばれることになり、道路交通の元標になったのだろうと思われます。 道路交通の元標の印として、オリバー・クロムウェルに斬首されたチャールズ一世の騎馬像がトラファルガースクエアの南のアイランドに立っています。 チャールズ王は、本人が処刑された場所を、今でもじっと見つめています。

ロンドン・ターミナル駅シリーズ その7|小さいけど、重要なチャリング・クロス駅前方に見えるのはビッグベン。チャールズ一世像は、本人が斬首されたバンケティングハウス(ホワイトホールの左側)の3番目の柱を睨みつけるように鎮座し、トラファルガー広場を背にしています。
ロンドン・ターミナル駅シリーズ その7|小さいけど、重要なチャリング・クロス駅チャールズ一世像の足元に設置された銘板。エレアノール・クロスは本来この位置にあり、道路元標(道路の基準点、Kilometre 0 point)としても知られています。


市場から駅舎へ ロンドンの南の玄関

やがて、そんな便利なところだったからこそ、古くからロンドンの台所として繁栄していたハンガーフォード市場を潰してまで、行政大執行が行われて造られた駅がチャリング・クロス駅なのです。 ちなみに、ハンガーフォード市場は、最寄りの市場コヴェント・ガーデンと競争し合うほど、フルーツ、花卉(かき:観賞用植物)、その他の食料品で隆盛した市場でしたが、度重なる火事でその経済力を弱め、荒廃してしまったタイミングで駅舎へと転換されたのです。 また、ウォータールー駅からチャリング・クロス駅を繋ぐ鉄橋及び歩道橋はハンガーフォード鉄橋として現在もその名を残し、利用されています。

ロンドン・ターミナル駅シリーズ その7|小さいけど、重要なチャリング・クロス駅チャリング・クロス駅の位置には野菜と花卉の市場がありました。エンバンクメントで荷下ろしされた物資は、まずこの市場を通ってからコヴェント・ガーデン市場に運ばれていました。
ロンドン・ターミナル駅シリーズ その7|小さいけど、重要なチャリング・クロス駅在りし日のハンガーフォード市場を眺めることはできませんが、その繁栄の跡を垣間見ることができるのはコヴェント・ガーデン。マイフェア・レディなどいくつかの映画の舞台になっただけでなく、16世紀から1974年までロンドンの台所として活躍しました。


さて、チャリング・クロスとは東部の自治地区シティと、西部の宮殿を中心とするウェストミンスターとに二分されていたロンドンが一つに融合する地点として、歴史的かつ地理的な意義のある地点と言えます。 日本の旅行ガイドでは、ロンドンの中心と言えば、ウェストミンスター地区とか、ビッグベンとか、ウェストミンスター寺院とか、ダウニング街10番地などがランドマークとして掲載されています。確かに19世紀までは、それらの範囲を総称してチャリング・クロスと呼んだ時代もあったのです。しかし、厳密に言えば、それらはGreat Britain(イギリス)を支配するイングランドの中心であって、シティ・オブ・ロンドンの中心ではありません。 ロンドンの中心はあくまでシティの中のギルドホールであって、ノルマンとして侵入してきた現王室は要塞都市ロンドンを攻略できなかったからこそ、グリフィン像の内側にあるシティの中に王室は施設を持たないわけです。

当方に言わせるなら、チャリクロ界隈のランドマーク群はロンドンではなく、ノルマン人侵攻後のイギリスの中心と言うべきものです。ただし、このように断言したところで、誰が困るわけでもありませんし、王室も寛容ですから、チャリクロをロンドンの中心と言っても良いし、イギリスの道路交通元標の起点としても、その認識はどちらでも好いと思います。ただ、ロンドンとイングランドとは、本来からして、互いにちょっと違うモノなのですよ…、とお伝えしたいと思いました。

ご参考「ロンドンってイングランド?」
https://www.british-made.jp/stories/lifestyle/2015070700282

ところで、南の海岸ブライトンからロンドンを目指す車のレースを題材にした喜劇映画が1950年代にたくさん作られているのですが、その種の映画を観たところ、ロンドンのゴールはトラファルガースクウェアになっていました。 映画のクライマックスで必ずドラマが起こるのは、トラファルガースクウェアを目のまえにしたウェストミンスター橋界隈。 ビッグベンの前でエンストするとか、レーサーが急病で気を失って突然運転できなくなるとか、その様子を観ていて、イギリスのウェストミンスター橋とは、日本のお江戸日本橋に相当するものなのかいな、という思いを抱いたものです。 事実、ウェストミンスター橋とマイル・ゼロポイント(道路交通元標)のチャリング・クロス、そして日本橋と日本橋室町の道路交通元標は、橋と元標どうしが互いに近いので、あながち間違った認識ではないと思います。家人(イギリス人)に聞いたところ、南からのロンドンの玄関となる橋は、やはりウェストミンスター橋とのこと。 また、逆方向ですが、ロンドンからブライトンに向かうカーレース、London to Brighton Veteran Car Run は1896 年から現代に至るまで実在し、戦時中とコロナ禍以外は毎年にぎわっています。


ロンドン・ターミナル駅シリーズ その7|小さいけど、重要なチャリング・クロス駅London to Brighton Veteran Car Run でウェストミンスター橋を渡るクラシックカー。このイベントにエントリーできるベテランカーは、1905年1月1日以前に製造された車に限定されます。


世界への門

さて、以上のような要所に造られたチャリング・クロス駅ですが、駅自体はどんなものだったでしょうか? 当方はケント州に長く住んでいたので、主にチャリング・クロス駅とヴィクトリア駅を使っていました。どちらの駅からでも、当方の自宅の最寄り駅への運行サービスがあったのです。 オクスフォード・ストリート駅に近いハノーヴァー・スクウェア界隈に事務所があったものですから、どちらの駅を使って帰るかを、時刻表を見て判断していました。スマホのある現代なら、瞬時に検索できることですが、アナログな情報で、アナログな判断をしていたのですね。 定期券はロンドン・ターミナル駅を降りてからZone1~6の範囲でしたら、どの交通機関を使っても良いトラベルカードを使っていました。

ケント州と言えば、イングランドの南東部ですから、皆さまに分かりやすい地域で言えば、カンタベリー経由で、アシュフォード、マーゲイト、ラムズゲイト、サンドウィッチ、ドーヴァー、フォークストンなどのSoutheastern Network(SEN:南東ネットワーク)の範囲です。ドーヴァー駅からチャリング・クロスまでは1時間40分ほどですから、なんとか通勤圏であり、且つ大陸に渡るために海岸や港にアクセスする旅行者の需要を取り込んでいます。

それらの路線はすべてロンドン・ブリッジ駅が起点・終点だったのですが、それでは「ロンドンの中心地」であるビッグベンやホワイトホールからは、テムズ河の川向うになってしまいます。そこで、ウォータールー駅に隣接するウォータールー・イースト駅を経由して、ハンガーフォード橋を渡ったところまで線路を延長し、ターミナル駅舎チャリング・クロス駅を拵(こしら)えて利便性を高めたわけです。つまり、ロンドンのターミナル駅のチャリング・クロスに達する手前で、ロンドン・ブリッジ駅やウォータールー駅がシティ方面とウェストエンド方面を分岐するジャンクションの役割を担っていることにもなるので、チャリング・クロス駅のプラットフォームは6つだけに集約されたのです。それでも、現代に至って、チャリング・クロス駅の稼働率や列車本数はかなりの頻度です。小さくてもロンドン・ターミナル駅と呼ぶに相応しい活況を呈しています。

チャリング・クロス駅は1864年に開業し、やがて船便による大陸交通の主要な終着駅となり、いくつかの有名な国際便が発着していました。フィッツジェラルドさんという貴族が、ヴィクトリア駅と並ぶ「世界の門」であると宣(のた)もうたのは、船の時代の全盛期というか、飛行機時代の萌芽期直前のことでした。

その国際的な運行サービスは2つの世界大戦の際に、兵力の輸送にも使われます。チャリング・クロス駅は陸軍の兵隊さんでごった返す暗い時代も経験しているのです。 飛行機が兵器として使われた第二次世界大戦中には、空襲で大きな被害を受けています。1940年10月8日、ホワイトホールへの昼間の空襲で列車が被弾。1941年4月16日から17日の夜、チャリング・クロス・ホテルは火災と爆発物による被害を受け、4本の列車が炎上し、橋の上でも数回の火災。4番線ホームに100ポンド(1,400kg)のパラシュート地雷が28個着弾。その後、駅は閉鎖され、完全に復旧するのは1951年。再開される戦後の安定期を待たなくてはなりませんでした。しかし、まぼろしのブロード・ストリート駅とは立地も条件も異なっていたので、船の時代が終わってもロンドンの中心として機能するために多くの資本が投じられ、復興が遂げられ、維持が続いたのです。

この頃、チャリング・クロス駅は一部の政治家からは、時代遅れとみなされハンガーフォード橋を道路橋または道路と鉄道の組み合わせで置き換えることが提案されたことがあります。しかし、現実的な機能が重視されたことで、ハンガーフォード橋は鉄橋として維持され、歩道も併設されます。そして、1980年代後半には建築家テリー・ファレルによって駅舎が再設計され、近代的なオフィス街として生まれ変わり、エンバンクメント・プレイスとして知られようになりました。


ロンドン・ターミナル駅シリーズ その7|小さいけど、重要なチャリング・クロス駅現在のチャリング・クロス駅


さらなる中心を目指したチャリング・クロス駅

ロンドンのターミナル駅と言えば、18箇所の放射状に広がった点ですが、これらの点と点とを結ぶことで、さらなる発展を目指したターミナル駅は少なくありません。その中でも、チャリング・クロス駅は北を目指しました。1864年に開業して間もなく立ち上がった計画は、チャリング・クロス駅と北のユーストン駅やセント・パンクラス駅とを浅めの地下鉄で繋げるロンドン・セントラル計画です。 何度か立案された計画ですが、資金不足のためにとん挫し続け、やがてノーザンライン、ジュビリーラインなどの地下鉄網が発達したことで、ある程度その役割は果たせているという認識のままで、その後の状況は変化していません。 北の仕向け地にも拠りますが、大ロンドン地域の南の住民はターミナル駅間の移動が面倒なので、車で高速道路M25を迂回して南から北を目指したり、ロンドン近郊の飛行場から国内線を使ったりすることもあります。 やはり、ターミナル駅間の移動問題は、いまだに解決されていないのです。

エリザベスラインが登場した現在の状況が、ロンドンのターミナル駅間の移動にとってベストな状況であるという人もいますが、確かに代替交通路の開発は、今後困難で、時間の掛かるものにならざるをえません。17世紀に『Dictionary of English Language』を編集したサミュエル・ジョンソン博士は「チャリング・クロスは世界の真ん中である。人間の潮が八方から寄せてくる」と述べています。ロンドンで何が起きているかを見るにはチャリング・クロスに行けばよいと言われるほど賑わいのある場所であり、その賑わいはこれまでの4世紀間に渡って続いています。 しかし、その潮流とはロンドン・ブリッジ駅やウォータ-ルー駅から伸びてくるものでもあって、北のルートから直接繋がったものではありません。 ですから、北とつながって、今以上に、チャリング・クロスのアクセスが良くなったとしても、さらに人流が激しくなってしまいそうです。 東京湾横断道路が接続した後の横浜中華街や、エリザベスライン開設後のオックスフォードサーカスやリージェントストリート界隈のように、立錐の余地もない混雑状態になって欲しくないので、当方が個人的に思うのは、チャリング・クロス駅は現状のままで好しとすべきということです。

次回は、ロンドン・ターミナル駅について、たぶん最終回。人名が付いた唯一のロンドン・ターミナル駅ってどこでしょう…ね?


ロンドン・ターミナル駅シリーズ その7|小さいけど、重要なチャリング・クロス駅アメリカからイギリスの書店に本を注文する女性と、イギリスの書店員との間で交わされた書簡のやり取りを認めた名著“84 Charing Cross Road”は、この書店Marks&Coが舞台になって展開されたお話。 ここはチャリクロ駅から徒歩5分ほどの劇場の近く。邦訳もされた世界のロングセラーです。ご一読あれ。 現在この位置にはアメリカ資本のハンバーガショップがあります。


Text by M.Kinoshita




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マック 木下

マック木下

ロンドンを拠点にするライター。96年に在英企業の課長職を辞し、子育てのために「主夫」に転身し、イクメン生活に突入。英人妻の仕事を優先して世界各国に転住しながら明るいオタク系執筆生活。趣味は創作料理とスポーツ(プレイと観戦)。ややマニアックな歴史家でもあり「駐日英国大使館の歴史」と「ロンドン の歴史散歩」などが得意分野。主な寄稿先は「英国政府観光庁刊ブログBritain Park(筆名はブリ吉)」など英国の産品や文化の紹介誌。

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