ロンドンのターミナル駅シリーズの最終回に挙げたいのはヴィクトリア駅。当方と家人が通勤に最も多く使ってきた駅であるだけに、トレインキャンセルを最も多く被ったり、いつも乗っていた通勤列車がIRAのテロで爆破されたり、残業で空腹を忘れていた23時に駅構内のバーガーショップ前でたたずんでいたり…などなど思い出が多い駅です。そして、かつての国家元首の名前が冠された唯一の駅名であることに、United Kingdom を代表する駅としてのプライドを感じます。
ヴィクトリア駅が現在の地に建ったのは、1860年(安政7年頃)。その前の企画段階では、テムズ河を渡るグロヴナー鉄橋になぞらえて、グロヴナー・ベイシン(集積)・ターミナス駅と命名される予定でした。その後、整備されたばかりの真新しいヴィクトリア通りに、その駅の入り口が面するということで、ロンドン・ヴィクトリア駅と命名されることになったのです。
ヴィクトリア女王の威光がかかった駅名ではなかったことにややがっかりしたものの、実際のところ、ヴィクトリア駅は、その登場後にその駅名に相応しい歴史的事実を積み重ねていきます。海外旅行が航空ではなく、まだ航海の時代だった当時としては、ドーヴァー海峡沿いの港から鉄道でロンドンに導かれるターミナル駅であったことはもちろん、イギリスの南の玄関口として、世界的に認知される偉大な役割を果たしてきた駅なのです。1900年、日本から船を乗り継いでイギリスまでやって来た夏目漱石も、このヴィクトリア駅からロンドンに降り立ちました。
さて、話はその160年前に遡って、ヴィクトリア駅が建つ以前のこと。ロンドンの主要地域、すなわち金融街、国際機関、法曹界、ホテルなどからフランスや大陸に向かうには、ケント州やサリー州などイングランド南部を通ってドーヴァー海峡に面する海岸や港町を経るルートが主要路線でした。その路線のロンドン起点は、ピムリコ・ターミナス鉄道駅、ロンドン・ブリッジ駅、そしてロンドン・ウォータールー駅などテムズ河対岸の駅。つまり、どの駅を使うにしても、それぞれの橋を渡ってテムズ左岸の駅に行かねばならんという、この上なく不便なルートでした。
そもそもピムリコ・ターミナス駅は、1858年、ブライトン、チャタム、ドーヴァー方面からロンドンに乗り入れる目的で、とりあえずの安普請(やすぶしん)で造られた臨時の駅でした。バタシー・パークとバタシー発電所との間に位置していたということは、地下鉄網が発達する前の時代、不便この上ない立地に暫定的に建てられた駅だったのです。ちなみに、1858年当時のバタシー発電所界隈はガス供給所や上下水道インフラなどナイン・エルムスと呼ばれる工場地帯で労働者の飲むジンのニオイが漂うドヤ街でした。その後の開発で建てられた発電所は1930年から1983年までその役割を果たしましたが、さらにその後の約40年間は放置され、かの有名な4つの巨大な煙突が聳える不気味な姿を呈していました。バタシー発電所跡と呼ばれた廃墟は、その殺伐とした悪名高き景観を経て2022年の10月からは商業複合施設として賑わっています。その施設から最寄りの駅は、ピムリコ・ターミナス駅を土台にしたバタシー・パーク駅で、今でも殺風景で鄙(ひな)びた駅舎のまま妙な存在感を醸し出しています。犬猫センターからの咆哮も聞こえてきます。
本来ピムリコと言われる地域はテムズ左岸に位置するのですが、そのピムリコから割と近いところに駅が出来たということで、テムズ右岸に設置されたにも関わらず、ピムリコ・ターミナス駅と名付けられたという記述をLondon百科事典で見つけました。ピムリコは国会議員なども住む高級住宅街として知名度の高い地域だったので、当時の駅名として選ばれたとのこと。ちなみに、ピムリコ・ターミナス駅から実際のピムリコ地域まではチェルシーブリッジを渡って徒歩で30分以上、イギリスの外務省や財務省のあるホワイトホールまでは徒歩で50分以上かかります。
ピムリコ・ターミナス駅の計画からほどなくして、将来的に効率的な集客が望めないことや、その不便さという問題に気づいていたロンドン・ブライトン&サウスコースト鉄道社(LB&SCR)とロンドン・チャタム&ドーヴァー鉄道社(LC&DR)の2社は、この問題を解決するために考案したことが、現在のヴィクトリア駅へとつながります。つまり、ヴィクトリア駅は2つの鉄道会社の目論見が一致したところで、現在地の一か所にターミナル駅を収斂(しゅうれん)したのですが、実際は2つの鉄道会社と2つの路線の駅が一つの駅中で共存する形で運用と経営が始まりました。やがて、1860年にヴィクトリア駅が現在地に開業すると、1858年に開業したピムリコ・ターミナス駅は閉鎖されます。そして、ロンドンのターミナル駅の中でも最も短命な駅として歴史に名を残しました。
当初は技術的にも、2つの路線は分かれていて、ブライトンに向かうLB&SCR鉄道は広軌道、チャタム・ドーヴァー方面は狭軌道の線路を使っていました。30年ほど前までは、実際にプラットフォームから線路を見ると、広軌道と狭軌道の両方が使える線路もあるように見受けました。広軌道の線路の間にもう一本、狭軌道の線路が沿っているのです。文献によっても記述が異なるので、技術的に正しいことはよく分かりません。興味のある方は実際にプラットフォームに行って確かめてみてはいかがでしょうか。広軌道と狭軌道が併用された時代の線路が、まだ見られるかもしれません。当方も機会があれば、全プラットフォームから線路をのぞき込んでみたいものですが、最近はチケットバリア(改札)内の規制も厳しく、線路の撮影はテロ対策とかで、基本的に禁止されているので、単なる見学でも事前申告や許可が必要です。
そして、開業した当初から、セレブリティなこの様子をアップマーケットに利用しようというアイデアを持った実業家が何人も登場しています。もっとも有名な列車サービスと言えば、プルマン・トレインのオリエント・エクスプレスでしょうか。特にプルマンの場合は、祖先の出身地であるイギリスに憧憬の念を抱くアメリカの実業家が目を付け、客車を豪華にあつらえ、国賓だけでなく富裕層に市場を広げて、イギリス式プロトコルでサービスを提供するシステムを考案したのです。今や、日本だけでなく、世界中にもそのサービススタイルのコンセプトが広がっています。かつてからの長距離列車や新幹線の食堂車や車内販売などはその例のひとつです。そして、ファーストクラス・アコモデーションという列車のための典型的なビジネススタイルとして今日まで発展し続けているのですね。
1990年代、航空業の会社員だった当方は、通勤でヴィクトリア駅からオックスフォードサーカス近くの事務所までルート8番か、25番のダブルデッカーを利用していました。毎日、宮殿の横を通るので、いつか壁越しにロイヤルファミリーを見ることはないだろうか、と目を凝らしていましたが、とうとうその機会は得られませんでした。
ちなみに、2000年頃から、8番と25番のダブルデッカーのルートは短区間に変更されてしまい、宮殿沿いを通ることはなくなってしまいました。それでも、ソーホーに向かう38番、ナイツブリッジ方面への16番など他にもバッキンガム宮殿沿いを通るバスはたくさんありますので、宮殿の壁越しのワクワク風景をお楽しみ頂けると思います。ヴィクトリア駅からバッキンガム宮殿までは徒歩5分の距離です。日本で言えば、皇居に対する東京駅のような位置にあるのが、ロンドン・ヴィクトリア駅ということになるのですね。
ところが、運転手はヴィクトリア駅がどこにあるのか分からないと言い出します。そして、お客などいそうもない真っ暗な公園(指令係はクリスタルパレスと推測するが、運転手はどこの公園か特定できなかった)周辺を若い女性客を乗せたまま流しているとのこと。ここで運転手の異常さが伝わってきます。まず、乗客がいるのに、流している…はずはありません。また、運転手はヴィクトリア駅を知らないはずはないし、自分の今いるところがどこであるかが分からないはずもありません。おそらく、運転手は暗闇の中で何かをしてしまったので、人混みでごった返す豪華絢爛なヴィクトリア駅などに行ける状況ではないことが読み取れます。つまり、乗客、あるいは恋人を殺害して、その遺体を後ろの座席に座らせている・・・のか。
この短編を読み返して、なぜヴィクトリア駅を場面として選んだのだろうかと考えました。その答えの一つは、お客がフランスから来る人であり、ヴィクトリア駅がロンドンの玄関口であることが、イギリス人にとって昔からの常識であることを示すためです。この小説では、そんな常態と異常事態との比較をすることで、運転手の行動の異常さを強調し、指令係と運転手の葛藤を表現していると考えられます。この小説はイギリス人の心象風景を理解するのに最適な読み物だと思います。
今はユーロスターが高速でロンドンとパリやブリュッセルなどの大陸間を移動手段として活躍していて、このような小説が生み出される背景は無くなってしまいました。しかし、今後も英仏間を渡すドーヴァー海峡のフェリーの運航が続くかぎり、ロンドン・ヴィクトリア駅は南イングランドの玄関口として、その堂々たる姿を見せ続けてくれることでしょう。ちなみに、ドーヴァー海峡をフェリーで渡る旅をされたら、ブリテン島が古代ローマ人からアルビオン(白亜の国)と呼ばれた理由を、感動を伴って納得して頂ける光景が眼前に広がるでしょう。
拙記事で何度か登場したこの画像はロンドン・ヴィクトリア駅を象徴する光景のひとつとして考えています。真ん中に見えるバタシ―発電所跡は商業施設として開発される前の外観です。ロンドンを散策される際には、遠くから眺めて、この画像と変化した現在の姿との違いをお楽しみください。撮影場所はEbury Bridgeです。ヴィクトリア駅からバッキンガム・パレス通りを250mほど南下して左折すると橋とこの光景が見えてきます。
ヴィクトリア駅、その命名のなぞ
そもそも、なぜこのターミナル駅だけに女王の名前が使われたのか?キングスクロスのように、「王たちの十字架」と命名されたロンドン・ターミナル駅は存在しますが、特定の元首の名前が駅名として採用されたことはありません。きっと、それだけヴィクトリア女王が偉大な存在だったのだ。と長年の間、勝手に思い込んでいました。しかし、事実はどうなのでしょう。王室が関わっているのなら、ロイヤル・ロンドン・ヴィクトリア駅と呼ぶべきではないか、という疑問が湧いてきました。ヴィクトリア駅が現在の地に建ったのは、1860年(安政7年頃)。その前の企画段階では、テムズ河を渡るグロヴナー鉄橋になぞらえて、グロヴナー・ベイシン(集積)・ターミナス駅と命名される予定でした。その後、整備されたばかりの真新しいヴィクトリア通りに、その駅の入り口が面するということで、ロンドン・ヴィクトリア駅と命名されることになったのです。
ヴィクトリア女王の威光がかかった駅名ではなかったことにややがっかりしたものの、実際のところ、ヴィクトリア駅は、その登場後にその駅名に相応しい歴史的事実を積み重ねていきます。海外旅行が航空ではなく、まだ航海の時代だった当時としては、ドーヴァー海峡沿いの港から鉄道でロンドンに導かれるターミナル駅であったことはもちろん、イギリスの南の玄関口として、世界的に認知される偉大な役割を果たしてきた駅なのです。1900年、日本から船を乗り継いでイギリスまでやって来た夏目漱石も、このヴィクトリア駅からロンドンに降り立ちました。
1892年、ヴィクトリア駅前に建てられたヴィクトリア・クロックタワーこと、通称リトルベン。フェリーで海を渡り、ドーヴァー港駅から列車に揺られてきたフランス人やドイツ人たちが、ロンドンの友人や知人たちと待ち合わせてきた場所として知られています。渋谷ハチ公前と同様に野ざらしなので、雨風が凌げません。
ピムリコ駅、グロヴナー駅、そしてヴィクトリア駅
本来、ヴィクトリア駅に課せられた役割には大きく分けて2つありました。まず、ドーヴァー海峡を渡ってくる海外からの旅行者や物資を、ビッグベンやホワイトホールなどの官庁街へ、且つ商業施設や宿泊所の多いウェストエンドへと、スムーズ且つ快適に輸送すること。そして、逆方向のブライトン、チャタム、ドーヴァーなどの観光地へと、ロンドンの人々を送り出すなど、ロンドンとイングランドの南や南東の海岸を結ぶ双方向の旅客・輸送マーケットを確保することでした。昨今、一般的に使われるようになった旅行業界用語で言うなら、フランスなどヨーロッパ大陸からのインバウンド、イギリスから大陸へのアウトバウンド、さらにイギリス国内の観光という需要をカバーしてきたのです。そして、一大インフラとして期待されたとおり、今日までの約160年間に輝かしい歴史的な業績を残してきました。 ロンドン・チャタム&ドーヴァー鉄道(LC&DR)。かつて、ユーロスターもこの在来線の一部を使っていました。当方は、ロンドンのほど近くBromley South(ブロムリ―・サウス)やその近辺に住んでいたので、ユーロスターのエンジン音が家まで聞こえてきました。
ロンドン・ブライトン&サウスコースト鉄道(LB&SCR)。こちらは“Dirty week end in Brighton”(ブライトンでの淫らな週末)などと不倫の名所として揶揄される海岸の街まで直結する路線。また、ブライトンは自転車、自動車、マラソンなどのレース会場やスタート/ゴール地点になることが多く、イベントごとにロンドン発の列車は立錐(りっすい)の余地がないほど混み合います。そこで、裏技となるのは、East Croydon(イーストクロイドン)駅でHove(ホーブ) 駅行きに乗り換えれば、座席が確保できます。ホーブ駅とブライトン駅との間はわずか1.5マイル。海岸沿いの散歩を楽しむと思えば、むしろ快適です。
ロンドン・ブライトン&サウスコースト鉄道(LB&SCR)。こちらは“Dirty week end in Brighton”(ブライトンでの淫らな週末)などと不倫の名所として揶揄される海岸の街まで直結する路線。また、ブライトンは自転車、自動車、マラソンなどのレース会場やスタート/ゴール地点になることが多く、イベントごとにロンドン発の列車は立錐(りっすい)の余地がないほど混み合います。そこで、裏技となるのは、East Croydon(イーストクロイドン)駅でHove(ホーブ) 駅行きに乗り換えれば、座席が確保できます。ホーブ駅とブライトン駅との間はわずか1.5マイル。海岸沿いの散歩を楽しむと思えば、むしろ快適です。
さて、話はその160年前に遡って、ヴィクトリア駅が建つ以前のこと。ロンドンの主要地域、すなわち金融街、国際機関、法曹界、ホテルなどからフランスや大陸に向かうには、ケント州やサリー州などイングランド南部を通ってドーヴァー海峡に面する海岸や港町を経るルートが主要路線でした。その路線のロンドン起点は、ピムリコ・ターミナス鉄道駅、ロンドン・ブリッジ駅、そしてロンドン・ウォータールー駅などテムズ河対岸の駅。つまり、どの駅を使うにしても、それぞれの橋を渡ってテムズ左岸の駅に行かねばならんという、この上なく不便なルートでした。
そもそもピムリコ・ターミナス駅は、1858年、ブライトン、チャタム、ドーヴァー方面からロンドンに乗り入れる目的で、とりあえずの安普請(やすぶしん)で造られた臨時の駅でした。バタシー・パークとバタシー発電所との間に位置していたということは、地下鉄網が発達する前の時代、不便この上ない立地に暫定的に建てられた駅だったのです。ちなみに、1858年当時のバタシー発電所界隈はガス供給所や上下水道インフラなどナイン・エルムスと呼ばれる工場地帯で労働者の飲むジンのニオイが漂うドヤ街でした。その後の開発で建てられた発電所は1930年から1983年までその役割を果たしましたが、さらにその後の約40年間は放置され、かの有名な4つの巨大な煙突が聳える不気味な姿を呈していました。バタシー発電所跡と呼ばれた廃墟は、その殺伐とした悪名高き景観を経て2022年の10月からは商業複合施設として賑わっています。その施設から最寄りの駅は、ピムリコ・ターミナス駅を土台にしたバタシー・パーク駅で、今でも殺風景で鄙(ひな)びた駅舎のまま妙な存在感を醸し出しています。犬猫センターからの咆哮も聞こえてきます。
Pimlico Terminus(ピムリコターミナス)駅はBattersea Park(バタシ―パーク)とNine Elms(ナイン・エルムズ)の工場群(後のバタシ―発電所)との間に位置していました。画像のNew Chelsea Bridgeとは今日のチェルシー橋。この橋と並行して、ピムリコ・ターミナス駅から北に延長してグロブナー鉄道橋が設置され、今日のヴィクトリア駅へと繋がりました。ちなみに、本来のピムリコ地域とは、ピムリコ・ターミナス駅からはテムズ河の対岸北東部に位置しています。現在は、ヴィクトリア駅とピムリコ駅は地下鉄で一区間の距離。ピムリコと言えば、婚前のダイアナ妃が働いていた幼稚園のある場所です。
本来ピムリコと言われる地域はテムズ左岸に位置するのですが、そのピムリコから割と近いところに駅が出来たということで、テムズ右岸に設置されたにも関わらず、ピムリコ・ターミナス駅と名付けられたという記述をLondon百科事典で見つけました。ピムリコは国会議員なども住む高級住宅街として知名度の高い地域だったので、当時の駅名として選ばれたとのこと。ちなみに、ピムリコ・ターミナス駅から実際のピムリコ地域まではチェルシーブリッジを渡って徒歩で30分以上、イギリスの外務省や財務省のあるホワイトホールまでは徒歩で50分以上かかります。
ピムリコ・ターミナス駅の計画からほどなくして、将来的に効率的な集客が望めないことや、その不便さという問題に気づいていたロンドン・ブライトン&サウスコースト鉄道社(LB&SCR)とロンドン・チャタム&ドーヴァー鉄道社(LC&DR)の2社は、この問題を解決するために考案したことが、現在のヴィクトリア駅へとつながります。つまり、ヴィクトリア駅は2つの鉄道会社の目論見が一致したところで、現在地の一か所にターミナル駅を収斂(しゅうれん)したのですが、実際は2つの鉄道会社と2つの路線の駅が一つの駅中で共存する形で運用と経営が始まりました。やがて、1860年にヴィクトリア駅が現在地に開業すると、1858年に開業したピムリコ・ターミナス駅は閉鎖されます。そして、ロンドンのターミナル駅の中でも最も短命な駅として歴史に名を残しました。
ヴィクトリア駅近辺が開発される以前のちょっと古い画像ですが、上空から見ても2つの駅舎が合体している様子が分かります。赤レンガの隣の右側の建物が、ロンドン史上初のターミナル駅ホテルです。船の時代でも、各国の大統領や国王など警護されるべき要人はいましたから、安全な宿として便利だったと思われます。
2つのヴィクトリア駅
さて、ヴィクトリア駅を正面からよく見ると、2つの異なる建物が合体しているような外観です。内観からもその様子が見て取れます。プラットフォーム1番から7番がLC&DR社が基礎を築いたチャタム、カンタベリー、ドーヴァー、フォークストン、ヘイスティングス、イーストボーンなど南東の海岸方面で、プラットフォーム8番から19番までがLB&SCR社が基礎を築いたブライトン、ガトウィック空港などの真南方面です。 外観を見ても、内観を見てもなるほどと思うのは、2つの異なった駅舎が合体した独特のカタチ。赤レンガの方がケント州を真南に下るガトウィックやブライトン方面。砂岩のブロックの建物の方がドーヴァーやサンドウィッチなどの南東海岸方面。駅構内で繋がっています。
当初は技術的にも、2つの路線は分かれていて、ブライトンに向かうLB&SCR鉄道は広軌道、チャタム・ドーヴァー方面は狭軌道の線路を使っていました。30年ほど前までは、実際にプラットフォームから線路を見ると、広軌道と狭軌道の両方が使える線路もあるように見受けました。広軌道の線路の間にもう一本、狭軌道の線路が沿っているのです。文献によっても記述が異なるので、技術的に正しいことはよく分かりません。興味のある方は実際にプラットフォームに行って確かめてみてはいかがでしょうか。広軌道と狭軌道が併用された時代の線路が、まだ見られるかもしれません。当方も機会があれば、全プラットフォームから線路をのぞき込んでみたいものですが、最近はチケットバリア(改札)内の規制も厳しく、線路の撮影はテロ対策とかで、基本的に禁止されているので、単なる見学でも事前申告や許可が必要です。
プラットフォーム1~7番までの南東方面行きの改札前。乗り換え先や目的地が色分けされていて便利。
プラットフォーム8~19番までは、ガトウィック空港やブライトンなどの真南に向かう路線。向かって右側には日本食のテイクアウェイ店やターミナルホテルへの入り口があります。
プラットフォーム8~19番までは、ガトウィック空港やブライトンなどの真南に向かう路線。向かって右側には日本食のテイクアウェイ店やターミナルホテルへの入り口があります。
バッキンガムパレスに近いので・・・
また、王宮に近いということで、ヴィクトリア駅は、他のどのターミナル駅よりも多くの王族や各国の首脳が到着する場所となりました。1910年のエドワード7世崩御の際には、葬儀に参列するために、世界中から7名の国王、20名以上の王子と5名の大公、そして日本からは伏見宮貞愛親王が船便でドーヴァー港に到着し、ロンドン・ヴィクトリア駅に降り立ったのです。そして、開業した当初から、セレブリティなこの様子をアップマーケットに利用しようというアイデアを持った実業家が何人も登場しています。もっとも有名な列車サービスと言えば、プルマン・トレインのオリエント・エクスプレスでしょうか。特にプルマンの場合は、祖先の出身地であるイギリスに憧憬の念を抱くアメリカの実業家が目を付け、客車を豪華にあつらえ、国賓だけでなく富裕層に市場を広げて、イギリス式プロトコルでサービスを提供するシステムを考案したのです。今や、日本だけでなく、世界中にもそのサービススタイルのコンセプトが広がっています。かつてからの長距離列車や新幹線の食堂車や車内販売などはその例のひとつです。そして、ファーストクラス・アコモデーションという列車のための典型的なビジネススタイルとして今日まで発展し続けているのですね。
オリエント・エクスプレスのレストラン車輌
1990年代、航空業の会社員だった当方は、通勤でヴィクトリア駅からオックスフォードサーカス近くの事務所までルート8番か、25番のダブルデッカーを利用していました。毎日、宮殿の横を通るので、いつか壁越しにロイヤルファミリーを見ることはないだろうか、と目を凝らしていましたが、とうとうその機会は得られませんでした。
ちなみに、2000年頃から、8番と25番のダブルデッカーのルートは短区間に変更されてしまい、宮殿沿いを通ることはなくなってしまいました。それでも、ソーホーに向かう38番、ナイツブリッジ方面への16番など他にもバッキンガム宮殿沿いを通るバスはたくさんありますので、宮殿の壁越しのワクワク風景をお楽しみ頂けると思います。ヴィクトリア駅からバッキンガム宮殿までは徒歩5分の距離です。日本で言えば、皇居に対する東京駅のような位置にあるのが、ロンドン・ヴィクトリア駅ということになるのですね。
ヴィクトリア駅を題材にした小説
ところで、イギリスのノーベル賞作家ハロルド・ピンターをご存じの方も多いと思います。彼の発表作の中に「ヴィクトリア駅」という短編作品があります。タクシー会社の「指令係り」と「運転手」の2名だけの会話文のみ、というプロットで構成された状況説明や情報の少ない小説です。指令係が流しをしている運転手にヴィクトリア駅でお客をピックアップするようにと、無線で指令をだす場面から始まります。流しをしているのだから、ブラックキャブであることは判ります。指令係はお客がフランスのブーローニュ港からフェリーでドーヴァー海峡を渡り、フォークストン港から汽車に乗り継いで、ヴィクトリア駅に着く予定時刻が午後10時ごろになることを運転手に告げています。ユーロトンネル以前の時代、フェリーの乗船券と鉄道の乗車券が一枚の切符だったことも場面から伝わってきます。ところが、運転手はヴィクトリア駅がどこにあるのか分からないと言い出します。そして、お客などいそうもない真っ暗な公園(指令係はクリスタルパレスと推測するが、運転手はどこの公園か特定できなかった)周辺を若い女性客を乗せたまま流しているとのこと。ここで運転手の異常さが伝わってきます。まず、乗客がいるのに、流している…はずはありません。また、運転手はヴィクトリア駅を知らないはずはないし、自分の今いるところがどこであるかが分からないはずもありません。おそらく、運転手は暗闇の中で何かをしてしまったので、人混みでごった返す豪華絢爛なヴィクトリア駅などに行ける状況ではないことが読み取れます。つまり、乗客、あるいは恋人を殺害して、その遺体を後ろの座席に座らせている・・・のか。
この短編を読み返して、なぜヴィクトリア駅を場面として選んだのだろうかと考えました。その答えの一つは、お客がフランスから来る人であり、ヴィクトリア駅がロンドンの玄関口であることが、イギリス人にとって昔からの常識であることを示すためです。この小説では、そんな常態と異常事態との比較をすることで、運転手の行動の異常さを強調し、指令係と運転手の葛藤を表現していると考えられます。この小説はイギリス人の心象風景を理解するのに最適な読み物だと思います。
コッツロー劇場(現在のドーフマン劇場)で1982年に上演された演劇のポスター。ハロルド・ピンター作の3つの演目の中に『ヴィクトリア駅』のタイトルも。出典:V&A
今はユーロスターが高速でロンドンとパリやブリュッセルなどの大陸間を移動手段として活躍していて、このような小説が生み出される背景は無くなってしまいました。しかし、今後も英仏間を渡すドーヴァー海峡のフェリーの運航が続くかぎり、ロンドン・ヴィクトリア駅は南イングランドの玄関口として、その堂々たる姿を見せ続けてくれることでしょう。ちなみに、ドーヴァー海峡をフェリーで渡る旅をされたら、ブリテン島が古代ローマ人からアルビオン(白亜の国)と呼ばれた理由を、感動を伴って納得して頂ける光景が眼前に広がるでしょう。
フランス側からドーヴァー港に向かう光景では、この白い崖が横に長く連なっています。日本で言えば、横浜の屏風ヶ浦や本牧がそれに近いという表現を、自著に残したのはアーネスト・サトウ全権公使(在任期間1896~1900年)。
マック木下
ロンドンを拠点にするライター。96年に在英企業の課長職を辞し、子育てのために「主夫」に転身し、イクメン生活に突入。英人妻の仕事を優先して世界各国に転住しながら明るいオタク系執筆生活。趣味は創作料理とスポーツ(プレイと観戦)。ややマニアックな歴史家でもあり「駐日英国大使館の歴史」と「ロンドン の歴史散歩」などが得意分野。主な寄稿先は「英国政府観光庁刊ブログBritain Park(筆名はブリ吉)」など英国の産品や文化の紹介誌。