イギリスの散歩装置 | 田園を歩くことで見えてくるもの | BRITISH MADE (ブリティッシュメイド)

Little Tales of British Life イギリスの散歩装置

2024.01.12

ーイギリスの田園を歩くことで見えてくるものー


夏至の頃は午後10時ごろまで明るいので、夕飯後でも散歩に出られます。しかし、サマータイムの終わる10月末から、サマータイムの始まる翌年の3月末までの約半年間は日照時間が短いので、明るいうちに積極的に歩くようにと心がけねば、歩きそびれてしまいます。特に、今どき、冬至の頃は最悪で、午後3時には暗くなってきますから、ビタミンD摂取の散歩は、生活に欠かせないアイテムとなります。 当方がイギリスに戻ってからはハイキングの装備を整えて、多少の雨でもほぼ毎日出かけることを習慣づけています。実際、そうやってイギリスの田園を歩くことは、もっともイギリスらしい習慣であり、且つイギリス人と一緒に楽しめる娯楽のひとつです。

ただし、その田園を歩くには、ルールがあります。つい最近、そのルールを作るための権利闘争の歴史があったことを知りました。そこで、今回はイギリス人がなぜ歩くのか、その意味と歩くためのシステムなどについて語りたいと思います。当方が始めてイギリスの田園を歩いたのは、1985年ごろ。その時に聞いた話はちょいと意外でした。「この散歩道(public footpath:パブリック・フットパス)は、農地(=田園)の中を歩けるようになっていて、産業革命の頃に整備されて以来ずっと存続している」とのこと。他人様の所有する農地の中を歩けるとは、画期的なアイディアではないでしょうか。さらに、ちょいと文献をひも解くと、大土地所有者に対して「歩く権利」を求めた人々の存在が見えて来ました。



イギリスの散歩装置 ランブリング パブリック・フットパスはイギリスのどこにでもあります。湖水地方では、緑の濃厚さと、清流と急流が特徴。一方、ロンドン以南のイングランドでは、カルスト(石灰)や粘土の地形なので川の色が茶色か濃い緑色に濁っています。画像の空がクリアでないのは、イギリスらしさってことで……。

イギリスの散歩装置 ランブリング 昨今は、移民3世代目の有色人種の人々もアウトドアを楽しむようになってきました。ほんの数年前までは、ハイキングやトレイルは白人の趣味とされていましたが、人種や民族を越えて楽しめる社会的な環境が広がることは喜ばしいと思います。

歩く権利ってなに?

18世紀、イギリスの大土地所有者たちは、過去何世紀にも渡って小作人たちに広く開放していた耕地と共同地を垣根などで囲むことにしました。理由は農業や工業の生産性を上げるため。共同で使える自給自足用の土地から小作人たちを追い出して、できるだけ広い土地を確保し、その土地を活用して牧羊(食肉、羊毛)やジャガイモなどの商品作物を大量生産する資本主義農業へと変換したのです。この現象を世の人々は農業革命とか産業革命と呼ぶようになったわけです。つまり、小作農民だった人々は、囲い込み運動(エンクロージャ)によって締め出しを食らいます。

元来の家はそのままですが、どこに行くにも道がなくなってしまうことになるので、農場の中で孤立してしまう状況に追い込まれます。棲む場所の周囲が大土地所有者によって囲い込まれてしまったので自宅から市場、教会や学校、隣村など……新しい産業の工場に出かけるのにアクセスが制限されると、どうやって移動すればいいのかという問題が生じます。そこで、「歩く権利」を確保しようという団体が発足。この権利の主張が、イギリス最古と言われる自然保護団体、広場協会(オープン・スペース・ソサエティ)の設立主旨です。


イギリスの散歩装置 ランブリング ヨークシャーの田舎で見かけた石造りのスタイル。歩行者が昇降しやすい階段に仕立てられていて、地主の厚意が感じられます。

イギリスの散歩装置 ランブリング ケント州で見かけたスタイル。パブリック・フットパスに突き出た岩が危険なので、あえてスタイルをこしらえたとのこと。この岩には「私の好きなスタイル」と言う名盤が埋め込まれていました。スタイルの下には犬が通れるくらいのスペースが考慮されています。

広場協会は、今でこそイギリスの道路および共有地や村の緑地などのオープン スペースの公共の権利を保護するために活動するキャンペーン グループで、且つ行政に登録された慈善団体ですが、1899年当初は庶民の歩く権利を主張する圧力団体でした。この団体の働きによって整備されたのが、公共に通行を認めるパブリック・フットパスです。大土地所有者は条件付きで、自分の土地の中を一般人が通行する許可を提供する義務を負わされました。その条件とは、「生け垣沿いならば、敷地内を歩いてもいいよ」というもの。過去から伝統的に使用されていたルートがある場合、目印をつけて土地の真ん中を通すこともあります。それでも、生け垣や(石造りの)フェンスにぶち当たりますから、そこに人が通れるくらいの小さなゲートなど、通行を可能にするための装置を設けることも大土地所有者に義務付けられました。


散歩の装置ゲートとは

さて、パブリック・フットパスに設置されるゲートの種類にはCattle grid(牛止めグリッド)、 Kissing gate(対面ゲート)、 Mass path(マスパス)、 Rambler gate(散策ゲート)、そしてStile(スタイル:踏み越し段)があります。これらゲートに共通している目的は、囲い込みの中から家畜を逃がさないため。同時に、一般人が通行権を行使するため。つまり、それぞれのゲートとは、いわば、我々の散歩を円滑に行うための装置と言えましょう。

オクスフォード大辞典によると、スタイルなどのゲートとは、「家畜などの動物ではなく、人間が境界を越えたり、通過したりできる通路を提供する構造物または開口部のこと」とされています。 一般的な形態には、階段、はしご、フェンスとフェンスとの間に設けられた狭い隙間などが、田舎の歩道、フェンス、壁、または家畜を囲う生垣に沿って設置される。ということです。


イギリスの散歩装置 ランブリング ケント州では珍しい石壁のスタイル。階段を昇って、脚を一本ずつ隙間に通す形式。家畜は通れませんが、ペットの犬も歩いては通れません。抱きかかえるか、飛び越えさせるしかありません。

イギリスの散歩装置 ランブリング 工事現場の覆工板(ふっこうばん)のように見えますが、キャトル・グリッドと呼びます。牛以外にも羊・馬など蹄(ひづめ)種の動物はグリッドの間に蹄がハマってしまうので、この先には進めません。グリッドを飛び越えたら……と思いますが、家畜たちにはその思考力が備わっていないようです。

これらゲートの中でも、特に個性が出てくるのがスタイルです。スタイルだけに、スタイル(style)の好いスタイル(stile)もあります。典型的なスタイルもある一方で、地域やその場所に応じた作り方が工夫されていることもあります。設置されたスタイルを眺めていると、作った人の人柄がにじみ出てくるような気がします。「こんな難しい場所に、よくもこんな工夫を施してくれて……」とか、「犬との散歩のために、スタイルに犬用の抜け穴を作ってくれるとは……」とか、「岩が邪魔にならないように、岩の上を滑るように降りられる工夫を……」とか。

長年、散歩を楽しむ御年83歳の義母(イギリス人)とは、たまに一緒にハイキングをするのですが、彼女は自らに「うッ(よいしょ)」という掛け声をかけて、ゆっくりとスタイルをまたいでは、散歩を楽しんでいます。高齢の彼女でも超えられる高さの工夫が施されたスタイルに大土地所有者の思いやりが(少し)感じられます。


イギリスの散歩装置 ランブリング 馬がフィールドにいる時は、スタイルを使います。馬がいない時は、鉄のゲートを使っても良し。馬にエサをあげるのは禁止という告知も。ちなみに、馬のそばを通るときは、馬の頭の方を通りましょう。やむなくお尻側を通るときは、馬3頭分以上の距離を保ってください。馬に蹴り上げられる事故はけっこう多く、生死に関わります。

イギリスの散歩装置 ランブリング 珍しい三段のスタイル。最下段は支柱が腐敗。基礎が緩んでいて、大きく揺れて危険です。それでも、83歳の義母はこのスタイルをまたいで、普通に散歩しています。揺れる最下段を支えるのは義理の息子の仕事です。

イギリスの散歩装置 ランブリング 極めてオーソドックスなスタイル(踏み越し段)。B4124など4桁の地方道などを横断するときは、歩道や路肩などありませんし、田舎道でも自動車優先の「車道」ですので、自動車の往来には要注意。制限速度が時速60マイル(時速96キロ)の田舎道も普通にあり得ます。

イギリスの散歩装置 ランブリング 農場だった土地や、農場と併設した住宅街にもスタイルがあります。宅地造成する際にもパブリック・フットパスを意図的に残すこともあるのです。左には穴の開いた板がカンヌキになっています。この穴に指を入れて持ち上げると小型犬が通れます。スタイルも低めで、しかもまたぎ易いように台形に切れ込みをいれた工夫が施されています。当方が見た中でも、もっとも配慮のあるスタイルです。

歩くルール|ショットガンで撃たれても

ところで、航空機などの操縦室を示す言葉「コックピット」の本来の意味をご存じでしょうか?「ニワトリの穴」と答えた方、好い回答です。では、その穴の中で、ニワトリたちは人間に何をさせられていたのでしょう?実は、そのニワトリ同士の闘う穴とは闘鶏場を意味します。ニワトリたちはどちらかが瀕死の状態になるまで穴の中で闘わされたのです。操縦室をコックピットと言うのは、操縦士たちが様々な計器を見ながら操作する姿が、あたかも格闘しているようにみえるからということのようですが、諸説あり。ともあれ、かつて動物虐待大国と言われた時代を経て、2004年にキツネ狩りが禁止されるまで、精神的に成長したと自負するイギリス人は、徐々に動物福祉国家としての体裁を整えてきました。特に羊、馬、牛などの場合は、財産としての家畜ですから、パブリック・フットパスに入ってきた人間や犬が追いかけて、その家畜に怪我を負わせたり、精神的な苦痛を与えたりしようものなら、その違反者には死に相当するような罰則が与えられて当然と考える人もいます。実際に、ハイカーの飼い犬が羊を追い回してしまった結果、猟銃で撃たれたケースなど、たまに地方のニュースになることがあります。動物愛護の観点で考えると、いささか矛盾している気もしますが……。

つまり、我々には歩く権利が与えられている一方で、歩くために果たすべき義務を負っていることも忘れてはなりません。ルールの中でも、大事なのはフットパスの厳守です。‘Private area beyond this gate.’ (このゲートの先は立ち入り禁止)という類の看板を見かけたら、そこには入っていけませんし、「歩く権利」は人間が歩く一本道の範囲でしか有効ではありません。一本道の正確な幅が記載されたルールはありませんが、その道から数メートル離れて、羊に近づいたり、ピクニックシートを敷いて食事をしたり、というのは厳禁なのです。「歩く権利」には食事や滞在は含まれていません。どんなに遅くてもいいけど、利用者の「歩く権利」のみが認められているところがパブリック・フットパスです。

イギリスの散歩装置 ランブリング 過去に、他誌で拙記事を読んだ邦人旅行者の方が、レンタカーを借りて、パブリック・フットパスの体験を試みた際、駐車場が見つからないので、このようなフェンスの前に駐車していたら、戻ったときには車は盛大に傷つけられていたそうです。理由はそのレンタカーがトラクターなどの農業機械の出入りを遮ったため。保険も50%の免責精算だったそうです。

イギリスの散歩装置 ランブリング ゲートにはいろいろな種類の掛け金があります。指を挟みやすいものもあるので、要注意。また、本文にもあるように、「羊の群れの中にいる犬は射殺されることもある」とのこと。「歩くための権利と義務との関係」をしっかり抑えておいてください。

イギリスはルールに厳しい国ですが、「まあ、これくらいはいいだろう」という匙加減が日本とは異なります。どこまでが許されて、どこからが許されないかという常識の範囲が日英では異なるので、外国人の我々はイギリスの法やルールに関しては、極力謙虚であるべきでしょう。フットパスの厳守!これだけは肝に銘じて歩いて下されば幸いです。

歩く目的|イギリス人はなぜ歩くのか

さて、ご存じのように、歩くこととは、自転車や車のドライブとはだいぶ異なるものです。目にとどまったものを凝視できること、それが歩く行為のひとつの機能、且つ魅力です。歩く以外の移動手段では、凝視するには振り返るか、戻るしかありません。一説に拠れば、イギリス人が大切にしているのは、自分と時間との関係性。言い換えれば、自分と現実的な時間との接点です。つまり、乗り物に乗れば、目の前に出てきた事物と自分との関係は一瞬です。その一瞬を振り返るために、我々が出来ることは、通過した場所に戻ることです。過去に戻ることになるので、あの時の一瞬はすでに失われています。しかし、歩いていれば、その瞬間は近似値的に少しだけ長くなります。そして、そのわずかな時間に我々は複合的な感性を働かせることができるのです。たとえば、歩く速度で、我々は松尾芭蕉のような俳句まで作れます。もちろん、それほどの出来ではないにしても、そのような感性が働くのです。子どものころから散歩好きな当方ですが、近似値的な瞬間の長さに気づかされたのは、イギリスの散歩を経験してからでした。

さて、当方が出会ったイギリス人たちは、妻も含めて、「歩いて感じるスピード」を大切にしています。その元となる行為がランブリング(rambling)です。(注意:rumblingは「かみなりゴロゴロ」)ランブリングとは、目的もなくぶらぶらすることと定義する辞書もありますが、当方に言わせれば、「頭の中をニュートラルにする」行為です。気分転換であり、快気であり、再起と再生を図り、自分自身を起点に戻すことでもあります。

当方だけに限らないと思いますが、狭い部屋から出て、外の空気を吸い、外界の景色に囲まれる必要があります。そのために手っ取り早い行動が「歩く」こと。我々はその歩く行動に、いろいろな呼び方をしています。逍遥(しょうよう)、ハイキング、ウォーク、トレイリング、トレッキング、そしてパブめぐり、ピルボックス(戦時中に建設された砦跡)めぐり、木の実拾いなどなどのテーマ別で散歩が可能です。イギリスでは、日本とは異なったランブリングが可能なのです。

イギリス旅行でもランブリングしよう

読者の皆様も、ここに掲載されたことを試してみようとか、確かめてみようとか、他にもいろいろな楽しみ方があると思います。例えば、当方の場合は、ナショナル・ギャラリーに行って、ターナーやコンスタブルの絵画を眺めると、モチーフとなった景色を現地で見てみたいと思います。そして、その景色を見て、自分だったらどんな絵にしたいだろうかと、その手法や感性を見定めては、自分独自のイメージを作り出します。もちろん、写実化するほどの腕前が無くても構いません。現代であれば、Eグラフィック技術で、そのイメージを作り出すことができるのですから、独自で新たなる絵画の世界を構築していくことも可能でしょう。ロケ地訪問で、ドラマの中の一部に自分が加わったという楽しみ方にも共通するし、新たなものが見つかる機会になるかもしれません。

端的に言えば、心を空っぽにして、目の前にあるものをあるがままに受け容れる気ままなラムブリングには、セレンデピティ(偶然の幸運)的な思いがけない発見があるかもよ、ということをお伝えしたいと思います。

イギリスの散歩装置 ランブリング コンスタブルが1821年に描いた名画“The Hay Wain” 200年経っても、ほぼ同じ景色が残っています。こうしたロケ地をめぐるのも散歩の楽しみのひとつ。横幅6mの絵画はナショナルギャラリーで観られます。

最後に、パブリック・フットパスにおける「歩く権利」とは『特権階級の大土地所有者が持つ「利権」の一部であり、価値が無くなるほど細分化した小さな権利のひとつである』ということに気づかれた方もいらっしゃるでしょう。今やイギリスで大土地所有者となっている人々は、アラブマネー、チャイナマネー、BRICsマネーという外国資本が大勢です。人間の五欲の中のひとつ、名誉欲を守るために、あるいは世界の王者に近づいた気分で、イギリス貴族の権威や上流階級の培ったノブリス・オブリージェ(高貴なる義務)の精神にカタチだけでも寄り添おうとする資産家も少なくありません。19世紀初頭以来、バブル時代の日本もそうであったように、世界の資産家はロンドン・メイフェアの高級住宅や、イギリス国内の土地建物を購入して、財産の固定化や権力を得ることにとどまらず、慈善事業を通じて、叙勲を目指し、貴族やイギリス王室の権威に近づくことを求めています。

ちなみに、イギリスの土地が今日の資産家たちに称賛される以前は、米系の財団たちがスイスやフランスの文化財や土地・家屋を買い占めて、現在も権威のステータスとして維持されています。昨今では、世界の資産家たちが目を向けている文化財と土地の購入先は日本であると言われます。

しかし、イギリスのパブリック・フットパスを歩いていると、世界の資産家たちが、今後の世の中をどうしたいと考えているのかが分かるような気がします。歴史上、お金持ちたちは子々孫々の代を経ても、一度得た特権を決して手放すことはなく、うまい具合に維持拡大してきている、ということがヒントです。長年に渡ってイギリスの田園を散歩しながらマナーハウスを眺めていると、そんなことまで想像させるインフラが見え隠れしています。もちろん、我々庶民は散歩中にショットガンで撃たれぬように気を付けて、田園風景を楽しんでいれば良いだけのことですが……。

Text by M.Kinoshita


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マック 木下

マック木下

ロンドンを拠点にするライター。96年に在英企業の課長職を辞し、子育てのために「主夫」に転身し、イクメン生活に突入。英人妻の仕事を優先して世界各国に転住しながら明るいオタク系執筆生活。趣味は創作料理とスポーツ(プレイと観戦)。ややマニアックな歴史家でもあり「駐日英国大使館の歴史」と「ロンドン の歴史散歩」などが得意分野。主な寄稿先は「英国政府観光庁刊ブログBritain Park(筆名はブリ吉)」など英国の産品や文化の紹介誌。

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