イギリスが「飲む」温泉なワケ | BRITISH MADE (ブリティッシュメイド)

Absolutely British イギリスが「飲む」温泉なワケ

2024.02.09

筆者にとって、イギリスで物件探しをする際の絶対条件は「湯船のある浴室があること」である。

これだけは絶対に譲れないので、条件に恵まれた物件でも湯船がないことを理由に何度お断りしたことか。そしてイギリス暮らしがどのくらい長くなろうとも光熱費がどんなに上がろうとも、毎日の入浴は欠かさない。湯船に浸かることこそ日々の愉しみ。リラクゼーション法であり、運動をほとんどしない筆者の唯一の怠惰なカロリー消費タイムでもある。一にも二にも、お風呂。お風呂なしの人生は甘くないケーキのようなもの。シャワー・ルーム反対!

というわけで先日、スパ文化の片鱗を求め、イングランド南東部の街であるタンブリッジ・ウェルズをぶらりと訪れた。もちろん温泉はない。

地名は往々にしてその土地の特徴を表しているものだが、例えば「Spa」とか「Wells」といった単語がつくイギリスの地名は、大体において天然の鉱泉が湧いている土地だ。今回のタンブリッジ・ウェルズはもちろん、レミントン・スパ、ボストン・スパ、テンブリー・ウェルズ、あるいはドロイトウィッチ・スパなど、鉱泉で栄えた場所は存外に多い。

イギリス全土にはおそらく知られていないものも含め、ゆうに100ヵ所は鉱泉スポットがあるはずだが、残念なことにその多くが熱泉ではないため、温泉として楽しむにはわざわざ湯を沸かす必要がある。

そんななか英国で唯一、40度以上の豊富な源泉を有する「真の温泉」は、イングランド西部のバースのみ。ローマ人たちが紀元後すぐに英国に侵攻した際、バースの源泉を発見して大喜びし、嬉々としてローマ式の公衆浴場テルマエを築いたことも、至極納得がいくのである。

イギリスが「飲む」温泉なワケ あぶそる〜とロンドン 江國まゆ サマセットにある街、バース。ローマ人が築いた公衆浴場跡で有名。
5世紀にローマ人が去った後はバースの熱泉さえサクソン人たちの興味を引かず、スパ文化はすぐには継承されなかった。現在のようにバース市がその温水をプールなどで利用するようになったのは、ミレニアムをすぎてから。

つまり、イギリスには日本のようなたっぷりの湯を楽しむ温泉文化は残念ながらない。しかしある種の「スパ文化」が上流階級との結びつきの中で、各地で発展してきた事実がある。中でもイギリスの人々は、「飲む健康法」に着目してきた。

スパ・タウンの中でも、タンブリッジ・ウェルズはバースに次ぐほどの人気を誇り、お洒落な保養地として多くの人を魅了した歴史がある。温泉がないことは百も承知だが、風呂好きな筆者としてはどこかでずっと気になっていた街なのである。

イギリスが「飲む」温泉なワケ あぶそる〜とロンドン 江國まゆ タンブリッジ・ウェルズ駅。ロンドン・チャリング・クロス駅から電車で約50分の距離。人口約11万人の街。
タンブリッジ・ウェルズで鉱泉が発見された時のことは、記録に残っているそうだ(もっとも「発見」以前から地元の人や森の動物たちは知っていたとは思うのだが)。

体調不良を抱え、田舎での療養を重ねていたジェームズ1世の廷臣が、療養先からロンドンへと戻る途中、偶然にも泉を見つけたのだという。その赤みがかった水を調べさせると多くのミネラルを含んでいることがわかり、飲んでみるとあら不思議、シャキっと体調が戻った。これが1606年のこと。鉱泉の効用が知られるようになるとタンブリッジ・ウェルズは一気に上流階級の間で有名に。さっそく2つの井戸が掘られ、周辺地域も整備されていくことになる。

チャールズ1世のお妃が王子の出産前後に湯治で訪れたり、婦人病や不妊症に効能があると聞きつけた王妃や女王が訪問したりと、公認の保養地として華やかな社交の場として発展。富裕層や文化人たちのお気に入りとしてどんどん街に必要な設備が整えられていき、その繁栄は18世紀後半まで続いたそうだ。

王族がよく訪れたことから、後世(1909年)になって「ロイヤル」の称号が与えられ、現在の正式名称はロイヤル・タンブリッジ・ウェルズとなっている。

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その栄光を象徴するのが、ジョージ王朝時代に築かれたThe Pantiles / パンタイルズと呼ばれる遊歩道建築である。

ローマ風の列柱が並ぶ回廊のような造りは、まるでリトル・バースといった趣。今回は冬の訪問となってしまったが、優雅なテラス席で爽やかな風を感じたいなら、絶対に夏に訪れてほしい場所でもある。

鉱泉を汲むことができる井戸がちょうどパンタイルズの起点にあり、最盛期にはここを訪れる人全てが「Dipper」と呼ばれる水汲み人が汲む鉱泉水を飲んでから、パンタイルズを散策するのが日課だったとか。

1804 年にはこの井戸の脇にThe Bath Houseが建てられ、温冷浴やスチーム風呂などを楽しむことができるようになったという。タンブリッジ・ウェルズの水は、鉄、マンガン、亜鉛、カルシウムなどを豊富に含んでおり、飲んだり、浸かったりすることにより健康への恩恵を得ることができた。

イギリスが「飲む」温泉なワケ あぶそる〜とロンドン 江國まゆ ザ・パンタイルズと呼ばれる遊歩道。建物の1階にはズラリとショップやカフェが立ち並んでいる。 イギリスが「飲む」温泉なワケ あぶそる〜とロンドン 江國まゆ 一日の時間帯によって表情が変わる。
現在も鉱泉水を飲む習慣は続いており、イースターから9月頃まで昔ながらの衣装に身を包んだ水汲み人が、1ポンド以下でグラスに水を入れ提供してくれるそうだ。

鉄分やその他のミネラル分の多い鉱泉水は一般的に英語で「Chalybeate(カリビエート)」と言う。当時の研究によるとカリビエート水は「消化器官の機能を高め、全身の組織を活性化し、筋力を高め、血液やさまざまな分泌物の質を改善する」効能があると言われていた。

実は昨年5月のチャールズ3世王の戴冠式を記念し、このカリビエート水の新ブランド「ロイヤル TW スプリング・ウォーター」が発表されたそうだ。ナチュラル、スパークリング、植物フレーバーなどさまざまな種類があり、井戸のそばに設置された自動販売機で入手できるのでぜひ、興味ある方は手にとってみてほしい(自分も買えばよかったと後悔)。

イギリスが「飲む」温泉なワケ あぶそる〜とロンドン 江國まゆ パンタイルズの端にある鉱泉水の水汲み場。左は古い交易所だった建物を利用したショッピング・モール。 イギリスが「飲む」温泉なワケ あぶそる〜とロンドン 江國まゆ カリビエート水の自動販売機!
17〜18世紀の当時、こうした鉱泉を利用した保養地は上流階級の人々のリゾート地として大変な人気を博していた。注目が集まり王族が出入りするようになるにつれ、風紀や秩序を保ちつつ、優雅な街として発展することが望まれるようになった。

その風紀づくりをはじめ、街のプロデュースを率先して行ったのが、タンブリッジ・ウェルズに先駆け、バースの街で大成功を収めていたリチャード・ナッシュという中産階級の紳士だ。ナッシュはセンスを買われて大抜擢。1704年に非公式ながらバースの「儀典長」に任命されたのである。

儀典長(Master of Ceremonies)というのは、社交の場にそれらしい格式を設けて、上流階級のエゴを満たし、街のトレンドをプロデュースしていく曖昧だが柔軟な強さが必要とされる役職だったようだ。

山師のようなナッシュは生来の知恵でバースの街を上流階級が憧れるスパ・タウンに仕立て上げることに成功。建築家と組んでローマ風の優雅なジョージアン・タウンを作り上げた。そして1735年に、次なるターゲットとしてタンブリッジ・ウェルズの儀典長に任命されたのである。

彼がどれほど成功していたかは、当時の国王・女王から2度もナイトの称号を打診されていることからもわかる。しかし2度ともその申し出を断っているのは、彼が自由な立場を謳歌したかったから、なのかもしれない。

パンタイルズの一画には、ナッシュに捧げた赤い記念プラークが掲げてある。そこには、こう書かれている。

「リチャード“ ボー(伊達男)”ナッシュ:ダンディーなファッション・リーダー、ザ・ウェルズの儀典長」

これを見ると、彼がどれほどパワフルで愛されていたかがよくわかるというものだ。

イギリスが「飲む」温泉なワケ あぶそる〜とロンドン 江國まゆ ナッシュに捧げられた赤いプレート。
タンブリッジ・ウェルズは18世紀後半あたりから、その人気を海辺の街、ブライトンに奪われてしまう。ブライトンには海があるだけでなく、カリビエート水の湧く場所もあったのだ。

しかし上流の人々に愛された優雅な歴史が消え去るわけではない。街を歩けば当時の面影をうかがい知ることができる美しい建築の数々があり、カフェ文化だってなかなかのもの。児童書を多く扱う素敵な古本屋さんにも出会うことができて、楽しいひと時を過ごすことができた。

この規模の街としては珍しくパテック フィリップの販売店まであった。宝石店の入り口にはバウンサー氏が立っている。地方の小さな街でバウンサー付きの宝石店があるのをこれまで見たことがないので、タンブリッジ・ウェルズが現在も中産階級の街だということがよくわかると思う。

イギリスが「飲む」温泉なワケ あぶそる〜とロンドン 江國まゆ 街で一番人気のカフェ「Juliets」。ヴィンテージ感が良い。 イギリスが「飲む」温泉なワケ あぶそる〜とロンドン 江國まゆ 春色のケーキたち。キャロット・ケーキ美味しかったです! イギリスが「飲む」温泉なワケ あぶそる〜とロンドン 江國まゆ テキパキと働くスタッフさんたちが眩しい。 イギリスが「飲む」温泉なワケ あぶそる〜とロンドン 江國まゆ 児童書を多く扱う古本屋さん。
イギリスで日本のような温泉文化が発達しなかったのは、なぜか。

鉱泉の温度が最も大きな要因なのではないかと思う。人肌以上の温度を保つために相当なエネルギーを消費することになるのだから。

次に公共の浴場を裸で楽しむ文化が育ちにくかったこともあるだろう。15 世紀頃は裸での水浴を教会が禁止していたこと、中世は学生も裸で川に入って水浴すると罰を受ける大学もあったそうだから、無意識レベルでいかなる場合でも人前で裸体を晒すことは罪深いと思っている可能性もある。

しかし温泉に入るときに水着なんか着ていた日には、楽しめるものも楽しめなくなってしまう。リラクゼーション効果も半減だ。実はこれが理由でバースの温泉プールに入りたいとはあまり思わない。

冒頭でも書いたが、イギリスでスパ・タウンといえば鉱泉を「飲む」ことが主流だった。水浴も冷水による治療があり、身体の組織を緩めることによる治療効果はあまり重視していなかったのかもしれない。

とはいえ、バース以外の歴史的なスパ・タウンの中には、冷たい鉱泉水を沸かしてスパ施設を作っているところもいくつかある。かつて10を超える湯船やトルコ式の風呂もあったヨークシャーのハロゲートには、現在は天然水を利用したジャグジーやプールなどが揃う豪華スパ施設Rudding Parkがあり、リラクゼーションを楽しむことができる。

またボトル入りミネラル・ウォーターで知られるバクストンの町では、バースのロイヤル・クレセントに似た壮大な三日月形の建物がある貴族によって作られ、水を汲みに来る多くの訪問者のために開放されたと言う。現在は「Buxton Crescent」と言う名前のスパ施設として一般に開放されている。

タンブリッジ・ウェルズと非常に似た発展を遂げた、レミントン・スパもある。王族が湯治で訪れたことにより同じくロイヤルを冠することを許されたスパ・タウンだ。

一方、バッキンガムシャーのドートン・スパは薬効の強いカリビエート水が出る町で、地主が立派なパンプ・ルームを造って一般の人々が恩恵に浴せるよう計らったが、当時の王侯貴族の興味はブライトンに取られていて誰一人として訪問することはなかった。従ってファッショナブルな町としてブレイクすることもなく廃れてしまったようだ。

同じような鉱泉水が出るスパ・タウンといえども、展開は悲喜こもごも。リチャード・ナッシュのようなプロモーターがいないことで、町興しにもどうやら格差が出てしまうということのようである。

イギリスが「飲む」温泉なワケ あぶそる〜とロンドン 江國まゆ タンブリッジ・ウェルズの夜。
源泉かけ流しを恋しく思う今日この頃ではあるが、ここイギリスならちょいと優雅なスパ・タウンへと足をのばし、古い街並みを楽しんだ後は、スパ・ホテルでゆったりとした時間を過ごすのも悪くない。

Text&Photo by Mayu Ekuni

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江國まゆ

ロンドンを拠点にするライター、編集者。東京の出版社勤務を経て1998年渡英。英系広告代理店にて主に日本語翻訳媒体の編集・コピーライティングに9年携わった後、2009年からフリーランス。趣味の食べ歩きブログが人気となり『歩いてまわる小さなロンドン』(大和書房)を出版。2014年にロンドン・イギリス情報を発信するウェブマガジン「あぶそる〜とロンドン」を創刊し、編集長として「美食都市ロンドン」の普及にいそしむかたわら、オルタナティブな生活について模索する日々。

http://www.absolute-london.co.uk

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