クリケットを知らずして、イギリスを語れるのか — 伝統的なアイコンで、新たなイギリスを見つめるー

Little Tales of British Life クリケットを知らずして、イギリスを語れるのか — 伝統的なアイコンで、新たなイギリスを見つめるー

2024.12.17

日本の夏と言えば、酷暑。ひいては、「蚊取り線香」や「甲子園球場」が夏のアイコンとして挙げられます。一方、イギリスの夏と言えば、「クリケット」と応えるイギリス人がなんと多いことか。BBC放送がクリケットの試合中継を始める時にかかる曲を口ずさみ、ライトグリーンのベルベットを敷き詰めたような、ふわふわの芝生を思い起こさせ、長い日照時間をゆったりと味わう。それがイギリス人の夏なのです。

britishmade クリケット マック木下イギリスのパブリックスクール(私立の中高一貫校)の校庭には、クリケット、ラグビー、ホッケーなどのピッチが設置されています。ベルベットのような手触りの美しい芝目に、その学校の格式と豊かさと、どのスポーツに熱を入れているかが分かります。

こんなクリスマス直前になぜ夏の話をするのかって?その理由は、クリスマスの頃、南半球のイギリス文化圏は夏だからです。かつてイギリス人が領土を広げた国々(インド、オーストラリア、ニュージーランド、スリランカなど)は、現代に至って、イギリスの君主を自国君主として委ねる緩やかな連合体コモンウェルス(連合王国領)として、その政治的な関係を存続しています。そして、日の没することなき大英帝国の文化領域が世界中に広まったことで、世界のどこかが夏である限り、クリケットは常にシーズン中なのです。

britishmade クリケット マック木下2015年、福島県の復興イベントとして開催されたクリケット大会。主にイギリス人で構成されたチーム。インド系、スリランカ系、そしてアラブ系のイギリス選手も混じっています。クリケットはそれだけワールドワイドな競技なのですね。真ん中のクリーム色のジャケットの人物は当時の駐日イギリス大使ティム・ヒッチンズ卿。

クリケットというフレームから見たイギリス

実のところ、クリケットはスポーツであると同時に、イギリスの様々なブランド、生活様式、ルール形体、紳士観、社交性、スポーツビジネスなど、コモンウェルス諸国の各国でその独特なイギリス性を開花させ、世界で2番目の人気スポーツとして君臨してきました。もちろん、その発祥はイギリス本国であり、今日のイギリスも「クリケット」というフレームを通して眺めることで、今までに私たちが知らなかったイギリスが見えてくるとともに、新たな理解と新たな興味が湧いてきそうな気がします。

britishmade クリケット マック木下クリケットは野球と同様に道具や防具が必要です。フィールダーたちは、ユニフォームと滑り止めの効いたブーツを履くだけですが、バット、ヘルメット、手足の防具は打席に立つために、選手各自が揃えます。また、ウィキッド・キーパー(野球のキャッチャーに相当)にはグラブも必携。ユニフォームに合わせたケーブルニットのセーターはイギリス人が好んで着るブランド的存在。

当方は、妻の赴任先だった東京、大阪、ソウル、ジュネーブではイギリス外交使節団(大使館や総領事館)のクリケットチームのメンバーでした。また、我が息子がパブリック・スクールの生徒だった11~18歳の間に垣間見たクリケット社会は、日本では到底経験できない異次元のイギリス空間でした。 おそらく、その空間は、フットボール文化しか知らずに人生を終える半数以上のイギリス人にも無縁な世界かもしれません。

イギリス人がクリケットに求めるもの

どんなスポーツでも競技場に行くと、心が弾むのは当方だけでしょうか。中でも、クリケットは広大なグリーンの芝生の中で、白いユニフォームの人々が小さくうごめく姿に心が惹かれます。たとえ、ルールがよく判らなくても、爽快感と高揚感が湧いてくる場所に違いありません。実際、1980年代半ば、当方が初めて行ったクリケットスタジアムは、マンチェスターのオールド・トラフォードにあり、2万人が収容される大きなすり鉢型の観客席には、クラブハウスがあり、そこでは妻(イギリス人)の友人の結婚披露宴が行われました。その日は試合日ではありませんでしたが、通常の試合時にはそのクラブハウスで紳士淑女がビールやワインを片手に、まったりとテーブル席で観戦するのです。その頃の観戦の姿と言えば、まずストロー・ボーター(日よけ麦わら帽子)は必携で、男性は白、または縦縞のジャケット、女性はノースリーブの白っぽいドレスという姿が不文律のドレスコードになっていた時代。今やそのプロトコルは失われてしまい、誰もが半袖、半ズボン姿。試合時間もルール改正によってどんどん短縮されていますが、クリケット観戦自体はイギリス人の夏のアイコン(象徴)として、且つ風物詩として、なおも健在なのです。

britishmade クリケット マック木下マンチェスターのOld Trafford競技場。ヴィクトリア建築の平屋建てクラブハウスで行われた結婚披露宴に参加したのは1987年でしたが、その後の改修で、5万人を収容し、サービスを高めたスタジアムになりました。圧倒される景観です。

ところで、クリケットを観戦するなら、最低限のルールは知っておくべきかもしれません。ごく簡単に述べると、11 人のプレーヤーからなる2つのチーム間で行われるバットとボールのゲーム。中央に22ヤード(約20m)の長方形ピッチで投打が繰り広げられ、円形または楕円形のフィールドでは、野手がボールを追って走り回ります。ゲームの目的は、相手チームよりも多くの得点を獲得すること・・・。詳しいルールはこちらのウェブサイトをご覧ください。

クリケットとアフタヌーン・ティー

クリケット観戦の楽しみ方は、まずその雰囲気。ゆったりした時間の中で、飲食を楽しみながらリラックスすること。プロの場合、終了まで2日間という試合もありうるので、観客の居眠りは当然であり、寝ている人の姿が中継映像に現われます。長丁場ゆえに、選手たちも試合中に食事を摂るので、そこで生まれたのがアフタヌーン・ティーから導入されたクリケット・ティー。優雅なティー・スタンドの体裁ではありませんが、10種類ほどのサンドイッチが山盛り大量に用意された専用クラブハウスで、2m越えのむくつけき選手たちは試合を中断して食事休憩を取ります。プロ選手たちは勝敗のために一生懸命ですが、観客席では観客がスタジアムの雰囲気を優雅に楽しんでリラックスしている状態なので、フットボールのように荒れた野次や組織立った応援はありえません。ちょうど、ラグビー観戦をしているときのように、敵味方のサポーターがビール片手に隣り合って、和気あいあいと紳士的にゲーム観戦を楽しんでいる状況です。つまり、激しい競り合いを観戦していても、居心地の良さが感じられる場所がクリケット場なのです。イギリス人がクリケット場に足を運ぶ気持ちがお判り頂けるでしょうか。

britishmade クリケット マック木下ひとつのゲームが3時間以上。長時間クリケットをプレイしているパブリックスクールの生徒たちは、食事の休息を取ります。親たちも併設するリビングに通され、そこで軽食を取ります。この時の食事こそ、”Tea“と呼ばれ、Afternoon Teaに準じるBritish Styleです。

パブリック・スクールの必修

元来、クリケットは貴族のスポーツでした。やがて貴族にはなれなくてもイギリス紳士を目指す人々の間で普及し、フットボール(サッカー)とは異なった世界観のもとで発展し“紳士のスポーツ”として市民権を得たのではないか、というのは持論ですが、あながち間違いでもないと思います。その理由として挙げられるのは、パブリック・スクール(私立の中高一貫校)の教育です。10世紀にパブリック・スクールが設立された趣旨は、パブリックに貢献する僧侶や牧師の養成でしたが、パブリック・スクールは時代とともにその目的や形態を徐々に変容させて今日に至ります。

britishmade クリケット マック木下クリケットのスコア表。当方の息子は7番打者ですが、アウトにならずに22点取って、このゲームに勝ちました。息子はパブリックスクールに入学した11歳からクリケットを始めたのですが、同校のプレップ校(幼稚園と小学校)から進学した他の子どもたちは5歳からクリケットに親しんでいます。

そして、近現代のパブリック・スクールの多くがクリケット、ラグビー、フィールド・ホッケーなどのスポーツを必修としています。その背景にあるものは「全人教育としての紳士性を育むこと」。スポーツの持つ蛮性に対して、理性をもって対応する人格を形成するというものです。どれも格闘技並みに激しいスポーツですから、気持ちの強さが全面に出されます。その気持ちをコントロールするのは、ルールという底辺の規範だけでなく、さらなる高貴な規範(理性、倫理、騎士道などを元にした道徳観)がスポーツマンシップとして導入されたのです。したがって、選手だけでなく、観客にも紳士性が求められます。

紳士教育とクリケットとBritish Values

当方の経験で述べますと、我が子らが通ったパブリック・スクールでもクリケットは3月から7月までの必修でした。毎週末は対外試合が組まれています。親たちは子どもたちの応援に行くと同時に、試合の運営にも関わります。ホーム、またはアウェイのどちらでも、たくさんの父母が参加し、子どもたちに檄(げき)を飛ばす一方で、試合が終われば、両チームの選手とその親たちが入り混じって、校内のバンケットルームで行われるティー・タイムに参加。学校側が準備した大量のサンドウィッチとティーで、満腹になるまで試合のことを語り合います。人気のサンドイッチはコロネーション・チキン。

そこには、フットボールのような荒々しい感情の坩堝(るつぼ)に巻き込まれることはありません。皆が紳士的に、試合の内容を振り返っては、穏やかに、客観的に分析し、敵味方に関係なく子ども(選手)たちのプレイをほめたたえ合います。多少、へつらい気味の発言をする人もいますが、それもご愛敬。そんな彼らも自宅や仲間内では、他人や相手チームの悪口を言っているのかもしれませんが、ティー・タイムは理性的な対話を常識とした究極の社交場であり、イギリスでしか体験できないBritish Valuesの世界なのです。見方を変えれば、ここでの人間関係は薄っぺらなものかもしれませんが、あくまで社交の場です。

ちなみに、チームは学年ごとに編成されますが、15歳以上になると、上手な選手は17、18歳のチームに編入され、全学代表としてプレイすることがあります。当方の息子は15歳で全学代表のウィキッド・キーパー(野球で言うキャッチャー)として選ばれましたが、翌年になると1学年下の生徒にそのポジションを奪われました。その生徒はプロ選手になったので、息子は彼なりに理性で納得していたようです。


あなたとクリケットをつなげたい―女子クリケット界の大谷翔平とは?

ここまで述べたことで、クリケット文化の異次元さのほどが、ある程度お分かり頂けたら良いのですが、クリケットをもう少し身近に感じていただくために、日本と関わりのあるクリケット選手たちと、日本でのクリケットの接し方を次に述べたいと思います。

まず、紹介したいのは、1992年生まれのナット・シヴァ‐ブラント(Nat Sciver-Brunt)というイングランド代表のキャプテンまで務めたことのある女性プロ・クリケット選手。現役選手の彼女は、女子クリケット界の大谷翔平と呼ぶに相応しいほど、多くのタイトルを獲得し、投打に渡って卓越した選手です。ナットは、現在(2024年)の駐日イギリス大使ジュリア・ロングボトムの長女。彼女は同性婚を果たすなど、LGBTsの人たちを勇気づける立場でもあり、話題の豊富な人物ですが、何といってもクリケットの鬼気迫る活躍ぶりで国際試合に限らず、彼女は必ずフォーカスされる存在です。


britishmade クリケット マック木下イングランド女子クリケット界のスタープレイヤー、ナタリー・シヴァーブラント。2022年と2023年には、国際クリケット評議会から世界女子年間最優秀選手に選出。女性が2年連続でこの賞を受賞したのは史上初めて。2024年、サリー州チームの本拠地であるオーバルスタジアムのゲートには、不世出の選手として彼女の名前が刻まれています。

次に紹介したいのは、日本人初のプロ・クリケット選手の宮地静香さんです。彼女はもともと陸上選手でしたが、2006年以来、クリケットの日本代表に選出され、2021年までに70試合以上の国際試合に出場し、キャプテンまで務めています。お目にかかった限りでは、小柄で引き締まったお嬢さんだなあと思いましたが、いざピッチで躍動する姿は忍者を思わせる鋭い動きで、見る者を驚愕させてくれます。プロのクリケット選手は、ひとつのチームだけではなく、イギリスを含むコモンウェルス内のいくつかのチームに所属しているので、静香選手もイギリスだけでなく、オーストラリアやニュージーランドでも活躍しています。

britishmade クリケット マック木下日本初のプロ・クリケット選手、宮地静香さんによる国際試合での投球場面。世界を転戦する選手生活はもとより、現在は筑波大学の大学院で、クリケットを通じて選手の(動機、能力、価値などの)維持とコーチングとの関係を調査研究中の才女。

さらに、木村昇吾選手は、松坂世代(1980年生まれ)の元プロ野球選手ですが、スリランカのプロチームでのプレイや日本代表選手としての実績をお持ちです。 抜群の運動能力を有する木村選手であっても、プロのクリケット選手になることは、なかなか難しいようです。2022年に取材した際には、日本にクリケットを広めたいとのことで、現在も頑張っておられます。

britishmade クリケット マック木下日本クリケット協会は、小学生へのクリケット指導も積極的に行っています。

佐野クリケットと2028年五輪

宮地静香選手と木村昇吾選手は栃木県佐野市にあるクリケット・グラウンドを拠点に、他の日本人クリケット選手たちと共に、日夜練習に励んでいます。今回、最後に紹介するのがそのグラウンドの運営者にして日本クリケット協会事務局長、宮地直樹さんです。スコットランド人を母に持つ宮地事務局長は子どもの頃からクリケットに慣れ親しんでいて、日本にクリケットを普及させたいという思いで、協会の職員になりました。現在はクリケット5か年計画(2023~2027年)で日本でのクリケットの「開花」振興(ワールドカップの出場など世界での活躍、リーチの拡大、社会的価値の創造、プロ化など)を目指して奮闘されています。

当方がイギリスに戻る直前の2022年、宮地事務局長の運営する広大なグラウンドを訪れた際、当方はイギリスに戻ったような錯覚に陥りました。イギリス郊外のコモンズ(共有広場)などで、草クリケットをプレイするイギリス人たちの躍動する光景と、佐野グラウンドの光景とで、そのイメージが重なったからこそ見た錯覚でした。「このグラウンドに来たら、飛行機に乗らずにイギリスを体験できますね」と言うと、宮地事務局長は「そうですね。まるで、どこでもドアだ」と返されました。


britishmade クリケット マック木下日本クリケット協会は、小学生へのクリケット指導も積極的に行っています。

2028年のロスアンゼルス五輪にはクリケットが正式種目として採用されます。あなたも、あるいは、あなたの近くの誰かが、クリケット日本代表選手として、将来の五輪に出場できるチャンスが巡ってくるのかもしれません。

日本でクリケットを経験したい方は、上記のウェブサイト「クリケットの世界」にアクセスしてみてください。イギリスでプロのクリケットを観戦したい方は、以下の各スタジアムのウェブにアクセスしてみてください。また、地域住民が週末に、コモンズ(広場)に集まって行われる草クリケットは、ロンドンの郊外に行けば出くわせるかもしれません。まれにハイドパークでプレイしている様子を見かけることもあります。ただし、6月から9月までの天気の良い4カ月間に限られます。クリケットに詳しくなるには、贔屓(ひいき)の選手を見つけて、その選手の動向を追跡していくことが、近道だと思います。その点で、メディアへの露出の多いナット・シヴァ‐ブラントは最適の選手でしょう。以上、当方のクリケット経験と見解が、皆さまのイギリス探訪のお手伝いとなり、クリケットへの興味へとつながれば幸いです。


ロンドンのクリケット・グラウンド
Lord`s Cricket Ground(Marylebone Cricket Club)
The Oval (Surrey County Cricket Club)
※The Ovalには、ナット・シヴァ‐ブラント選手の偉業を称えたゲートが設けられています。


Text by M.Kinoshita


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マック 木下

マック木下

ロンドンを拠点にするライター。96年に在英企業の課長職を辞し、子育てのために「主夫」に転身し、イクメン生活に突入。英人妻の仕事を優先して世界各国に転住しながら明るいオタク系執筆生活。趣味は創作料理とスポーツ(プレイと観戦)。ややマニアックな歴史家でもあり「駐日英国大使館の歴史」と「ロンドン の歴史散歩」などが得意分野。主な寄稿先は「英国政府観光庁刊ブログBritain Park(筆名はブリ吉)」など英国の産品や文化の紹介誌。

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