年に一度の海外旅行が2020年までの習慣だった。その習慣はコロナウイルスによってあえなく崩れ去ったが、昨年にようやく再開した。閉塞的だった生活の鬱憤を晴らしたくてイタリアとトルコへ向かった。イタリアはもちろんのこと、トルコにすっかり魅了されたため、今年もイタリアとトルコへ旅に出た。せっかくBritish Madeに寄稿しているのだから、英国にゆかりのある地も加えられないかと知恵を絞った。その結果、渡航先に足したのが今回紹介するマルタ共和国である。
マルタは、およそ東京都23区と同じくらいの面積を有する島国だ。紀元前5000年ごろにはすでに人が住んでいた痕跡が残っているほど長い歴史を有している。世界遺産に登録されている巨石神殿群は、ピラミッドやストーンヘンジよりも1000年以上前に建立されたといわれている。何と言っても歴史に大きく名を残すのはマルタ騎士団だろう。1656 年、オスマン・トルコの大軍に包囲されながらも勝利を収めた。その後、騎士団長ジャン・ドゥ・ヴァレットが築いた要塞を基盤として建設された首都は、彼の名にちなんでヴァレッタと命名された。
『マルタの鷹』という名作がある。原作はダシール・ハメットで、ハードボイルドの金字塔と称される傑作だ。映画では、私の敬慕するボギーことハンフリー・ボガートが主演を務めている。斜に被ったソフト帽に、トレンチコート姿、そして、不屈の精神を持ったボギーに衝撃を受けて以来、愛着ある映画の一つだ。マルタの名を初めて耳にしたのがこの作品ともあり、舞台となった地をどうしても見ておきたかったのだ。タイトルになっている“マルタの鷹”は、マルタ騎士団の領土を保証するために、時の神聖ローマ皇帝カール5世へ実際に毎年献上されていた。史実では生きた鷹だったが、劇中では黄金の鷹に姿を変えているのがユニークだ。その黄金の鷹が献上されるのが、先述したマルタ騎士団が名を馳せるのと同時代なのである。
マルタが英国と関係を深めていくのは、そのさらに数百年後のことだ。地図を広げてみるとわかるとおり、マルタ島は地中海のほぼ真ん中に浮かんでいる。”地中海のへそ”と呼ばれ、交易の拠点だった。1798年にナポレオン率いるフランスに支配されたのち、1814年に英国領となった。第二次世界大戦では、枢軸国との激戦が展開された。度重なる攻撃を受けるも屈せずに守り抜いた。その甲斐あって、英国王ジョージ6世から十字勲章を授かり、現在も国旗に反映されている。1964年に英連邦内の一国として晴れて独立している。複雑な話だが、現在のマルタ共和国とは別に、エルサレム、ロードス及びマルタにおける聖ヨハネ主権軍事病院騎士修道会、通称マルタ騎士団は、領土なき独立国として、イタリア・ローマにあるマルタ宮殿に治外法権を与えられている。ゆかりのない国や地域を知ろうとする際、歴史から紐解くことが最も腹落ちる。これほど魅力的な歴史を持ちながら、なかなか日の光を浴びることがないのは忍びないので駆け足で説明した。
マルタの公用語はマルタ語と英語だ。実は、ヨーロッパで英語を公用語としているのは、英国、アイルランド、マルタで、EUに限定すればアイルランドとマルタの2カ国だけになる。主流な言語でありながらも、公用語と定めている国が少ないのは意外だ。そういう経緯もあって、マルタには多くの留学生が学びに来ている。それは、我が国日本からも例外ではない。実際、マルタでは、イタリア、インド、アルゼンチン、ベトナム、トルコなど、さまざまな国の人に出会った。治安の良さもヨーロッパ随一とあり、人気に拍車がかかっている。
自動車の通行側が左側なのも英国に由来している。異国での運転は、その国の人間性やお国柄を覗くのにもってこいなので、いつも楽しみに待ち侘びている。今回も喜び勇んで国際免許を発行したにも関わらず、スケジュールの都合上運転できなかったことが残念で仕方ない。
英国、シチリア、アラブ、北アフリカなどの影響を受けたマルタは、食文化もユニーク だ。マルタの国民食ともいうべきフッティーラは、石窯で木炭を使って焼く丸いパンだ。そこにチーズ、トマト、ハム、オリーブなどを挟んで食べる。水が乏しいマルタでは、海水を淡水にして利用している。そのため塩分が少し残ったパンは独特の味わいがする。大きさは子供の顔ほどあるので、ひとつ食べ切ると満腹になってしまう。フッティーラ に似た食べ物でホブズというのがあるが、これはイースト菌を使用するかしないかの違いである。
アリオッタ(漁師のスープ)という、炒めた玉ねぎ、ニンニク、トマト、魚に米が入った濃厚な魚介スープの味も忘れられない。いかにもイタリア料理に影響を受けていそうなゴゾチーズを詰めたラビオリも有名だ。中でも、マルタ料理の代表格と言っていいのはウサギ料理だ。ワインやハーブで煮込んだシチュー、それからニンニクとハーブのソテーは格別だった。鶏に近い舌ざわりが独特で、あまりにも気に入ってしまい連日口にした。ホテルの部屋に戻ったとき、妻のポーチにあしらわれたマイメロディと目があったときは思わず目を逸さずにはいられなかった……。
ヴァレッタでは色々なカフェやレストランに足を運んだが、最も気に入ったのは「カフェ ジュビリー」だ。1920~30年代のビストロをコンセプトにした店で、店内には所狭しと映画のポスターや昔の広告が貼られている。照明の雰囲気や、看板のフォントのセンスが良い。昼も夜も地元の人達が通う様子は、どことなく英国のパブの面影がある。店名は、英国君主の即位を記念して行われる祝典に由来するのは間違いないだろう。しかし、古 い時計を蒐集している身としてはジュビリーと聞くと、同じく英国と深い繋がりのあるロレックス社のジュビリーブレスを想起する。じつは店主がロレックスのコレクターで、そこから興じて店名を命名したのではないだろうかと考えてほくそ笑んだ。よく考えれば世界三大時計の一つであるヴァシュロン・コンスタンタンもマルタ十字をアイコンとしているし、マルタは意外に時計に縁がある。やはり店名のルーツは時計ではないだろうか。
マルタの中心地は世界遺産である旧市街を擁する首都ヴァレッタだ。はちみつ色のマルタストーンで建築された街並みは統一感がある。建物から張り出す窓も個性的だ。そこに朝日や夕日が差し込んだ時の色合いは形容しがたい美しさだ。アッパー・バラッカ・ガーデンに登れば、対岸のスリーシティズが見渡せ、絶景を拝むことができる。高低差をうまく活かした街づくりは魅力的なのだが、その分坂道が険しい。うっかりベビーカーの手を離したりすればスキージャンプのようにK点突破してしまうので要注意だ。訪れたのは10月末だというのに、気温はなんと25度もあった。畳み掛けるような強い日差しにもずいぶん参った。そういう理由もあって、ほとんどの人が半袖半パンにビーチサンダル姿なのは納得だ。ウールのセーターやマフラーを持参した自分自身に嫌気がさすのは言うまでもない。マルタの服装文化を楽しみにしていたのだが、これといった収穫を得ることができなかったのが、唯一の心残りだ。
ヴァレッタに劣らず魅力的だったのが、古都イムディーナだ。ヴァレッタからバスで向かうと、街並みを抜け次第に荒涼たる平野があらわれる。しばらくすると、小高い丘にそびえる城塞が見える。これこそがヴァレッタが築かれるまでの首都であり、“静寂の町”として名高いイムディーナだ。現在はすっかり観光地と化しているが、一本路地に入れば人気がまるでない。高くそびえる壁と狭い路地が迷路のように入り組んでいる。かつての貴族の邸宅が軒を連ねており、聖パウロ大聖堂の鐘の音がこだますると本当に中世にタイムスリップしたような感覚を覚える。人口は 300 人とも 400 人とも聞かされたが、喧騒なヴァレッタに比べると騒音がなく居心地が良い。無粋な看板や広告も皆無であり、視覚的にも聴覚的にも静謐な場所だった。
城砦を一歩出ればラバトと呼ばれる下町に出くわす。ここでどうしても食べたかったのが名物パスティッツィだ。さくさくのパイ生地にリコッタチーズ、豆、チキンなどの具が入った定番の食べ物だ。その先駆けとして知られる名店「イッセルキン」では焼きたてがわずか€1で食べられるのだ。街歩きで小腹がすいた時にもってこいだ。
イムディーナからバスで10分も経たないほどの距離に、地元の工芸品が買える工房が並ぶ。かつては飛行場だった地を改修したとあり、周囲には何もない。工房を振り返った先に見えるイムディーナは砂漠に立つ城のように見え、ここは一体どこなのだという感覚に陥った。そうまでして訪れたのは“Bristow Potteries”という窯元があるからだ。店内には常時700~800点もの陶器が所狭しと飾られている。伝統的な英国のスリップウェアとは異なり華やかだ。なんともマルタらしい陽気さがある。珈琲がなくては生きていけないので、カップとソーサーを購入した。手描きで装飾する工程も見学でき、ワークショップも体験できる。
マルタを訪れた理由がもう一つある。それはユーロヴェロを旅するサイクリスト AKIRAさんが最初に訪れた地がマルタだったのである。2人の息子たちは彼の大ファンで、せっかくならば、彼の軌跡をたどる旅に出ようとなったのだ。さすがに5歳と2歳を連れての自転車旅は難しいので、バス、電車、船を利用してヴァレッタからナポリまでを旅した。その距離およそ530マイル(約850km)。マルタから出国する手段は飛行機と船の2つだ。まだ船で出入国をしたことがなかったのと、AKIRA さんに倣ってその方法を採ってみた。出航時間は午前 5 時……。宿泊先を3:30に出て港に向かった。こんな早朝に船に乗る人はいないだろうと軽んじていたら、思いのほか人が多いことに驚かされた。パスポートコントロールはないに等しく、あっという間に終了して拍子抜けした。航行時間はおよそ2時間で、ゆっくりと船旅を楽しんだ。イタリアのポッツァッロ港で迎える朝焼けは素晴らしいものだった。そして、このあとノート、シラクーサ、カターニア、タオルミーナに立ち寄った。飛行機を使えばたかだか1時間だが、ひねくれているのと天邪鬼さがたたって、わざわざ面倒な方法で1週間かけてシチリアを半周してナポリへ渡った。きっと沢木耕太郎信者のせいだろう。イタリアでは旅最大のトラブルが待ち受ける訳だが、イタリアンメイドになってしまうので、ここまでとする。イタリア篇については12/21(土)KRYラジオ『どよーDA!』でお伝えするので機会があればご清聴いただきたい。
何の気なしにふらっと見知らぬ国に行くことができない性分なので、旅には何かきっかけが欲しい。英国本土自体は何度訪れても飽きることはない。だが、英国と関係の深い土地で両者を比較しながら滞在してみるのも悪くなかった。その地に降りてさえしまえば放浪するのは訳ない。このやり方で旅を続けてみるのもいいのかもしれない。かつての大英帝国の名残もあり、英国には属領や海外領土もあり広範囲に影響を及ぼしている。マン島、ジブラルタル、マラッカなどもいつか訪れてみたい地だ。そんなことを考えながら日々の推進剤にするのである。さあ、次は一体どこへ行こう。
マルタは、およそ東京都23区と同じくらいの面積を有する島国だ。紀元前5000年ごろにはすでに人が住んでいた痕跡が残っているほど長い歴史を有している。世界遺産に登録されている巨石神殿群は、ピラミッドやストーンヘンジよりも1000年以上前に建立されたといわれている。何と言っても歴史に大きく名を残すのはマルタ騎士団だろう。1656 年、オスマン・トルコの大軍に包囲されながらも勝利を収めた。その後、騎士団長ジャン・ドゥ・ヴァレットが築いた要塞を基盤として建設された首都は、彼の名にちなんでヴァレッタと命名された。
『マルタの鷹』という名作がある。原作はダシール・ハメットで、ハードボイルドの金字塔と称される傑作だ。映画では、私の敬慕するボギーことハンフリー・ボガートが主演を務めている。斜に被ったソフト帽に、トレンチコート姿、そして、不屈の精神を持ったボギーに衝撃を受けて以来、愛着ある映画の一つだ。マルタの名を初めて耳にしたのがこの作品ともあり、舞台となった地をどうしても見ておきたかったのだ。タイトルになっている“マルタの鷹”は、マルタ騎士団の領土を保証するために、時の神聖ローマ皇帝カール5世へ実際に毎年献上されていた。史実では生きた鷹だったが、劇中では黄金の鷹に姿を変えているのがユニークだ。その黄金の鷹が献上されるのが、先述したマルタ騎士団が名を馳せるのと同時代なのである。
マルタが英国と関係を深めていくのは、そのさらに数百年後のことだ。地図を広げてみるとわかるとおり、マルタ島は地中海のほぼ真ん中に浮かんでいる。”地中海のへそ”と呼ばれ、交易の拠点だった。1798年にナポレオン率いるフランスに支配されたのち、1814年に英国領となった。第二次世界大戦では、枢軸国との激戦が展開された。度重なる攻撃を受けるも屈せずに守り抜いた。その甲斐あって、英国王ジョージ6世から十字勲章を授かり、現在も国旗に反映されている。1964年に英連邦内の一国として晴れて独立している。複雑な話だが、現在のマルタ共和国とは別に、エルサレム、ロードス及びマルタにおける聖ヨハネ主権軍事病院騎士修道会、通称マルタ騎士団は、領土なき独立国として、イタリア・ローマにあるマルタ宮殿に治外法権を与えられている。ゆかりのない国や地域を知ろうとする際、歴史から紐解くことが最も腹落ちる。これほど魅力的な歴史を持ちながら、なかなか日の光を浴びることがないのは忍びないので駆け足で説明した。
マルタの公用語はマルタ語と英語だ。実は、ヨーロッパで英語を公用語としているのは、英国、アイルランド、マルタで、EUに限定すればアイルランドとマルタの2カ国だけになる。主流な言語でありながらも、公用語と定めている国が少ないのは意外だ。そういう経緯もあって、マルタには多くの留学生が学びに来ている。それは、我が国日本からも例外ではない。実際、マルタでは、イタリア、インド、アルゼンチン、ベトナム、トルコなど、さまざまな国の人に出会った。治安の良さもヨーロッパ随一とあり、人気に拍車がかかっている。
自動車の通行側が左側なのも英国に由来している。異国での運転は、その国の人間性やお国柄を覗くのにもってこいなので、いつも楽しみに待ち侘びている。今回も喜び勇んで国際免許を発行したにも関わらず、スケジュールの都合上運転できなかったことが残念で仕方ない。
英国、シチリア、アラブ、北アフリカなどの影響を受けたマルタは、食文化もユニーク だ。マルタの国民食ともいうべきフッティーラは、石窯で木炭を使って焼く丸いパンだ。そこにチーズ、トマト、ハム、オリーブなどを挟んで食べる。水が乏しいマルタでは、海水を淡水にして利用している。そのため塩分が少し残ったパンは独特の味わいがする。大きさは子供の顔ほどあるので、ひとつ食べ切ると満腹になってしまう。フッティーラ に似た食べ物でホブズというのがあるが、これはイースト菌を使用するかしないかの違いである。
アリオッタ(漁師のスープ)という、炒めた玉ねぎ、ニンニク、トマト、魚に米が入った濃厚な魚介スープの味も忘れられない。いかにもイタリア料理に影響を受けていそうなゴゾチーズを詰めたラビオリも有名だ。中でも、マルタ料理の代表格と言っていいのはウサギ料理だ。ワインやハーブで煮込んだシチュー、それからニンニクとハーブのソテーは格別だった。鶏に近い舌ざわりが独特で、あまりにも気に入ってしまい連日口にした。ホテルの部屋に戻ったとき、妻のポーチにあしらわれたマイメロディと目があったときは思わず目を逸さずにはいられなかった……。
ヴァレッタでは色々なカフェやレストランに足を運んだが、最も気に入ったのは「カフェ ジュビリー」だ。1920~30年代のビストロをコンセプトにした店で、店内には所狭しと映画のポスターや昔の広告が貼られている。照明の雰囲気や、看板のフォントのセンスが良い。昼も夜も地元の人達が通う様子は、どことなく英国のパブの面影がある。店名は、英国君主の即位を記念して行われる祝典に由来するのは間違いないだろう。しかし、古 い時計を蒐集している身としてはジュビリーと聞くと、同じく英国と深い繋がりのあるロレックス社のジュビリーブレスを想起する。じつは店主がロレックスのコレクターで、そこから興じて店名を命名したのではないだろうかと考えてほくそ笑んだ。よく考えれば世界三大時計の一つであるヴァシュロン・コンスタンタンもマルタ十字をアイコンとしているし、マルタは意外に時計に縁がある。やはり店名のルーツは時計ではないだろうか。
Cafe Jubilee
マルタの中心地は世界遺産である旧市街を擁する首都ヴァレッタだ。はちみつ色のマルタストーンで建築された街並みは統一感がある。建物から張り出す窓も個性的だ。そこに朝日や夕日が差し込んだ時の色合いは形容しがたい美しさだ。アッパー・バラッカ・ガーデンに登れば、対岸のスリーシティズが見渡せ、絶景を拝むことができる。高低差をうまく活かした街づくりは魅力的なのだが、その分坂道が険しい。うっかりベビーカーの手を離したりすればスキージャンプのようにK点突破してしまうので要注意だ。訪れたのは10月末だというのに、気温はなんと25度もあった。畳み掛けるような強い日差しにもずいぶん参った。そういう理由もあって、ほとんどの人が半袖半パンにビーチサンダル姿なのは納得だ。ウールのセーターやマフラーを持参した自分自身に嫌気がさすのは言うまでもない。マルタの服装文化を楽しみにしていたのだが、これといった収穫を得ることができなかったのが、唯一の心残りだ。
ヴァレッタに劣らず魅力的だったのが、古都イムディーナだ。ヴァレッタからバスで向かうと、街並みを抜け次第に荒涼たる平野があらわれる。しばらくすると、小高い丘にそびえる城塞が見える。これこそがヴァレッタが築かれるまでの首都であり、“静寂の町”として名高いイムディーナだ。現在はすっかり観光地と化しているが、一本路地に入れば人気がまるでない。高くそびえる壁と狭い路地が迷路のように入り組んでいる。かつての貴族の邸宅が軒を連ねており、聖パウロ大聖堂の鐘の音がこだますると本当に中世にタイムスリップしたような感覚を覚える。人口は 300 人とも 400 人とも聞かされたが、喧騒なヴァレッタに比べると騒音がなく居心地が良い。無粋な看板や広告も皆無であり、視覚的にも聴覚的にも静謐な場所だった。
城砦を一歩出ればラバトと呼ばれる下町に出くわす。ここでどうしても食べたかったのが名物パスティッツィだ。さくさくのパイ生地にリコッタチーズ、豆、チキンなどの具が入った定番の食べ物だ。その先駆けとして知られる名店「イッセルキン」では焼きたてがわずか€1で食べられるのだ。街歩きで小腹がすいた時にもってこいだ。
Is-Serkin Crystal Palace Bar
イムディーナからバスで10分も経たないほどの距離に、地元の工芸品が買える工房が並ぶ。かつては飛行場だった地を改修したとあり、周囲には何もない。工房を振り返った先に見えるイムディーナは砂漠に立つ城のように見え、ここは一体どこなのだという感覚に陥った。そうまでして訪れたのは“Bristow Potteries”という窯元があるからだ。店内には常時700~800点もの陶器が所狭しと飾られている。伝統的な英国のスリップウェアとは異なり華やかだ。なんともマルタらしい陽気さがある。珈琲がなくては生きていけないので、カップとソーサーを購入した。手描きで装飾する工程も見学でき、ワークショップも体験できる。
Bristow Potteries Ltd
マルタを訪れた理由がもう一つある。それはユーロヴェロを旅するサイクリスト AKIRAさんが最初に訪れた地がマルタだったのである。2人の息子たちは彼の大ファンで、せっかくならば、彼の軌跡をたどる旅に出ようとなったのだ。さすがに5歳と2歳を連れての自転車旅は難しいので、バス、電車、船を利用してヴァレッタからナポリまでを旅した。その距離およそ530マイル(約850km)。マルタから出国する手段は飛行機と船の2つだ。まだ船で出入国をしたことがなかったのと、AKIRA さんに倣ってその方法を採ってみた。出航時間は午前 5 時……。宿泊先を3:30に出て港に向かった。こんな早朝に船に乗る人はいないだろうと軽んじていたら、思いのほか人が多いことに驚かされた。パスポートコントロールはないに等しく、あっという間に終了して拍子抜けした。航行時間はおよそ2時間で、ゆっくりと船旅を楽しんだ。イタリアのポッツァッロ港で迎える朝焼けは素晴らしいものだった。そして、このあとノート、シラクーサ、カターニア、タオルミーナに立ち寄った。飛行機を使えばたかだか1時間だが、ひねくれているのと天邪鬼さがたたって、わざわざ面倒な方法で1週間かけてシチリアを半周してナポリへ渡った。きっと沢木耕太郎信者のせいだろう。イタリアでは旅最大のトラブルが待ち受ける訳だが、イタリアンメイドになってしまうので、ここまでとする。イタリア篇については12/21(土)KRYラジオ『どよーDA!』でお伝えするので機会があればご清聴いただきたい。
何の気なしにふらっと見知らぬ国に行くことができない性分なので、旅には何かきっかけが欲しい。英国本土自体は何度訪れても飽きることはない。だが、英国と関係の深い土地で両者を比較しながら滞在してみるのも悪くなかった。その地に降りてさえしまえば放浪するのは訳ない。このやり方で旅を続けてみるのもいいのかもしれない。かつての大英帝国の名残もあり、英国には属領や海外領土もあり広範囲に影響を及ぼしている。マン島、ジブラルタル、マラッカなどもいつか訪れてみたい地だ。そんなことを考えながら日々の推進剤にするのである。さあ、次は一体どこへ行こう。
部坂 尚吾
1985年山口県宇部市生まれ、広島県東広島市育ち。松竹京都撮影所、テレビ朝日にて番組制作に携わった後、2011年よりスタイリストとして活動を始める。2015年江東衣裳を設立。映画、CM、雑誌、俳優のスタイリングを主に担い、各種媒体の企画、製作、ディレクション、執筆等も行っている。山下達郎と読売ジャイアンツの熱狂的なファン。毎月第三土曜日KRYラジオ「どよーDA!」に出演中。
江東衣裳
http://www.koto-clothing.com